吉永さん家のガーゴイル 第13話「祭りよければ終わりよし!」

 バスタオルは要らなかったかな。
 まぁ本当に用意していたわけでもないんですが。最終回単品で見ると詰め込み過ぎって感じですかね。双葉・梨々・美森を軸に話を展開したかったんだろうけど、双葉方向にはパパママ・花子が広がっているし、梨々方向には百式・ハミルトン・レイジ(っていうのかあのククルカン関係の怪しい人は)がひろがっていてそれだけでも大変。錬金術師イヨ・東宮・ヒッシャム(オシリス)の浮き島はあるわ、和己&桃や商店街の人、そして今回のデパート側の人間も描いていて、さらに連関させようとしているからとにかく焦点がぼけてぼけてしょうがない。それぞれのグループでは話の露出が短いなりに出来はいいんだけど、その分やっぱり深みはなかなか出しにくいですわなぁ。まるで舞乙をみているようだ。
 前回考えていた地元商店街と大型店舗の対立構造について、じつはあれから通勤時にぼんやり考えておりました。どうもこの作品は3〜4年ぐらい前の作品で、作者の生年は不祥なんですが20代後半っぽい。出身地にもよりますが中学時にはバブル崩壊を経験しているだろうから、小学生の時には地元商店街がまだ少しは元気があった頃のことを知っているのかも。だから双葉視点での商店街の在り方ってのがわりとそれっぽくなっているのかな?。今回も豆腐屋がでてきてましたが、1990年頃にはまだ豆腐屋が残っていたと思うんですよね。そう、大きい水槽に豆腐が沈めてあって買うときに取り出してくれるあの光景を作者も見たことがあるんじゃなかろうか?。残念ながらそういう風景は今回はなかったような気がしますが。自分が小学生の時には市場みたいなところがあって、まだ覚えていることもかろうじて残っている感じですよ。卵がもみ殻の上に並べられて売られていたって覚えている人いるかなぁ?。ざるが小銭入れになっていて、上から吊り下げられていたって今の人は信じないんじゃないかな?。まぁ昔話はおいといて。
 で、地元商店街(もしくはスーパー)が壊滅状態になった今、当時*1どうやったら生き残り&地元の活性化が出来たのかを問い直す意味があったんじゃなかろうかと思ってみたりしたのです。さすがに餓鬼が携帯端末を持っているので舞台は今って所でしょうが。そしてパパさんの答えが「共存共栄」って。今からでも遅くないから連携しあってということなんでしょうか?。しかし御色町は駅前商店街と駅前デパートの対立だったのに対して、今は駅前デパートが苦戦しているところもあり、そういうところではむしろ郊外型店舗との対立であったりするのですよ。デパートのメリットは一店舗で用がすんでしまうということであり、また安さも一つにはあったでしょう。豆腐だけを買って会計、卵だけを買って会計ってのは結構めんどかったんじゃなかろうか。ただ、やっぱり押さえておかなくてはならないのは、商店街とデパート(というかスーパー)は、互いに足りないものを補完しあうという構造ではないために、どうしても客の取り合いにならざるを得ないんじゃなかろうか?。もちろんどちらかをひいきにする客ってのはいるだろうから一概には言えないでしょうが、大局で見ればどちらかが相手のおこぼれを拾うという構造になるのが関の山か?。一時期商店街というか小規模店舗は大型店舗にない専門性を生かして勝負って言われてたことがあると思うんですが、むしろ安くても大量に捌ける商品を扱うほうが楽だし、種類を増やしたところで不良在庫が増えるだけかもしれないので、やっぱり規模のメリットには太刀打ちできなかったんじゃなかろうかと思います。特に消費者の購買能力が低くなるとなおさらそうなるよね。パパさんの言うとおり仮に共存共栄が出来たところで、今度は他の町との客の分捕りあいになるわけであってなかなかそう簡単にいくとも思えません。
 まぁそんなことはないと思っているんだけど、多忙化ってのも一因なんでしょうかね?。この作品のママさんも専業主婦だし、双葉もおつかいに行ったり遊びに行ってたり(だから商店街でうろうろしてたりする)するから塾に行っているとも思えない。だからこそいわゆる地元とのふれあいってのができるんだろうかと。隣のおばあちゃんなんかモロ典型だと思いませんか?。一人で過ごす時間はたっぷりある。だから商店街に菓子を買いに行ったり、隣の餓鬼と茶飲み話も出来るって。これが夫婦共働きだとこうはいきませんわな。帰るときには商店街は閉まっていたりして、そりゃ遅くまでやっている店舗とかコンビニを利用するしかありませんわな。子育てなんて無理無理。他人に預けて、その預け賃稼ぎに働いたりしているんでなんだかなぁと。まぁそうやって庶民が働いたお金を掠め取るのが今の商売のやり方であって、そりゃなくても実際には困らないようなモノやサーヴィスを取り扱ってる企業なんかがやたら羽振りがいいですわな。なんか要らないものを買うために必死で働いて自分で多忙化しているって気もするんですが。まぁそこまでこの作品は言ってはいないと思いますが。
 デパートの開店セールも言うなれば一種のお祭りであって、新参者であるからこそその地の祭りには参加できず、自分で祭りを用意するしかない。資金力があるからこそ派手にも出来るだろう。しかし常態化するとそれは祭りではなくなるしコストもバカにならない。そこまでして集客しても常連化するかどうかもわからないし、しなきゃ客は寄せられない。そこまで地元商店街とギスギスしなきゃなんないのか?とも考えるとなぁ。やっぱ金儲けを考えて出店という段階で、もう戦争にしかならないのは目に見えていると思うんですよね。資本主義(市場原理主義)だからこそ大量の金がさらなる金を求めて環境を荒らすようなことに結局ならざるを得ないんじゃなかろうかと。だからこそメリットを敢えて描かずにデパート側を悪者にして、商店街側でハートフルストーリーを展開したんでしょう。まぁ総括にもなっちゃうんだけど、自分にはこれでも商店側の描写はイベントドリブンであって、もうちょっと変わらない日常の描写が欲しかったような気がする。商店街のことばっか描くわけにはいかんと思いますけどね。まぁ理想は商店街の人たちが自分達でデパートを作ってってことならいいんだろうけど、それは自分達で商店街を破壊するってことでもあるからなかなかねぇ。別に大型店舗でなくても商店街のまゝでもいいってことだし。「変わらなきゃ、(日本)」とかいう標語もあったけど、変わらなきゃ座して死を待つのみってことにもなろうし、かといって変わったところで状況が前より良くなるとも限らない。注意しなきゃならないのは、変わらなきゃと言っている奴は大抵その変化を利用して自分がオイシイ思いをしようと思っているからこそ声を大にして言っている場合がほとんどで、むしろ失われた10年はそれに振り回された結果ではないかとも思います。ほら、強いものがさらに強くなってる*2でしょ?。まぁそれはおいといて。
 全体を振り返ってみると、たしかに過剰な感動巨編であったのだけど、あまり印象にはないっていうかそういう点はどうでも良かったりしました。一話完結のものも二話連続のものはものなりに考えさせてくれるものがあったし、そもそも私は結構お涙頂戴モノは嫌いじゃないんですよ。欲を言えば、やっぱり双葉・梨々・美森の三本を軸に御色町商店街の話を深めてもらいたかった。錬金術関係(東宮・ヒッシャム)はもうちょっとはしょってもいいかな。お気に入りのエピソードなんだけど和己&桃の話もなくてもいい。最後のデパートとのどたばたも要らないかな。まぁそうはいっても原作がそういう構成じゃないんでしょうけどね。別に美森がお気に入りではないんだけど、勢いがあったのは最初だけであとはほとんど背景化したからもう一回ぐらい当番回があったほうがよかったんではなかろうか?。まぁ商店街にスポットを当てるとしても、あまりに吉永家に商店街を手伝わせるわけにもいかんから、双葉の出番が少なくなるということで難しいとは思います。十分楽しませてもらいましたよ。スタッフも結構工夫しながら作っていたとも思いますし、とりあえず感謝の意を述べておきます。おもろ。

ほい追記

 いやぁ、やっぱり頭に血が上って長文なのはいけねぇ。簡潔に書くとすれば、御色町商店街ってのは自分の町にもこんな商店街があったら楽しいだろうなって描写は十分出来ていたと思います。そりゃ楽しいだろうけどちょっとこれは?みたいなところは全然なかった。その点でも評価されるべきではないかと思う。

*1:もしくは復興を期待して今、

*2:皮肉なのは、それで国際競争力がついたわけではないと言うこと。経済が国際化している現在、むしろ国民同士が協力し合わなきゃなんないのに、日本のエスタブリッシュ層とやらは自国では弱いものいじめをして結局国全体の力を削いだ。