キノの旅 第11話

 キノゝ過去話というか始まりの話。
 うーん、大人の国として示されたキノゝ故郷は確かにちょっと前の日本のあり方ではあるんだけど、かなり振り切ってるので個人的にはどう判断してよいか迷う。職業を継がせるために子供がいるというのもヘンな話で、そういうふうに見えていた原因の一つは江戸時代というのが居住地を固定させた制度であったことが大きい。どこでもそうだったというつもりもないが、田分けを嫌えば次男以降は他所に出されるのが普通だし、土地を所有しない小作人は果たしてそれほど子に小作農を続けさせる強烈な動機があったかどうかも疑わしい。近代教育が発達せず自由労働市場も未熟であれば、自分の仕事を継がせるということは、むしろ親にとっても子供にとっても楽で合理的であった可能性のほうが大きい。日本社会はつい最近までそういう流れに乗っていて、そして大半の人にとってそれが時代遅れとなった現在その恩恵を一番受けているのがアベだったりするわけで、なんとも皮肉なことではある。
 だからこそ敢えてこういう設定を出してきた意味も考えながら述べてみると、小キノが歌い手になりたいと思っているからには、移動の自由がなくとも多種多様な職業がある世界であり、しかもなれるものなら他の職業になりたいといっているからには、あの制度に少なからずの不満を持っていたと考えられるわけであり、しかも終盤小キノを親が殺そうとしているからには、その不満はそれなりにあって恐怖で黙らせていたんだなと読める。
 子供は親の所有物だからとかという点も不思議な感じで、自分なんかもいろんな読み物で昔の親は理不尽なことで逆ギレし、すぐ刀を持って追いかけてきておっかなかったというのを目にしたが、不思議なことにそのバカ親父が本当に子供を刀で惨殺したとかいう例を読んだことがない。最近今ドキの親が托卵思想で子供は社会全体でそだてるべきと主張しているが、昔の村落共同体がムラの子供をムラ全体で育てたのはその子供がムラの外には出ないから、子供に直接投資したものが直接ムラに返ってくるからであって、例えば村の若衆が共同生活をする場であった若者宿や娘宿などは、都市部で存在した話を聞かないところからしても、やはり人が流動化したところではせいぜい子供の悪さを見咎めた大人がちょっと注意する程度のことであって、たとえ少なくとも家産は直接親から子供に受け継がれるものである以上、歴史的に見れば良い意味でも悪い意味でも子供はやはり親の所有物であった可能性が高いと思う。そもそも地域共同体が破壊されている現在、隣人同士ですら他人といわれているのに子供は社会で育てるべきと主張しているのがおかしいのであって、それを主張するのであれば、日常から近代市民として振る舞わなければならない。
 そういうことをつらつら考えてみれば、それぞれの要素はワン・イシューではいろいろ議論の余地があるのだけども、結局の所小キノがなぜ旅に出るようになったかの理由付け、つまり元いた場所が安住の地ならば旅に出るはずがないのであって、キノを弾き飛ばす舞台装置としてわざわざ日本の固陋なところを引っ張り出してきているというふうに見るしか無い。個人的には手術がなんのメタファーなのか、普通だったらあのようなイニシエーションは一つのきっかけであってもうちょっと大人になる態度その他は日常的に仕込まれるだろうと思うわけで、あんなみせ方をされたらそれがどのようなものか気になって仕方がないじゃないか…というもの。



 あと気になったのは、前回の話との対比。もともと評判の悪い国だったのだから、キノにとっては故郷と重ねることがなかったはずはないし、案内してくれた女の子は同じ旅館の娘で、拳銃のメンテを頼んだ店では師匠の話までされてなんの因果も感じてなかったのかというもの。前回の話は全滅したんならそれはそれで悲劇として美しくまとまっていると評価していたのだが、今回の話を直後に持ってきたことによってなんじゃそりゃといった感じだ。敢えていえば今回の話で台無しになったという感じ。過去の経験、それもキノ自身の体験から彼女は何も学んでないというかあまりに場当たり的に行動しているようにしか見えないわけで、しかも狙ってこういう構成にしているからしてそのアニメスタッフの本意がよくわからんと言ったところ。アニメも終わりだからキノの由来をやっとくか、という安易な考えだけではこういう順番になるはずがないわけで。