無彩限のファントム・ワールド 第7話

 猫屋敷の化身が猫の姿ってのはどうかなぁ。屋敷の化身は屋敷では?。
 今回の話は強引な感じ。シュレーディンガーの猫の話が前説だったから、どうなんだろ?と思っていたら、猫屋敷に囚われている主人公達こそがシュレーディンガーの猫かもという転倒が面白かったぐらいで、かといってそこに生死が重なり合った猫要素はなくって、結局やったことは供養と再利用という。
 精神医学や文化人類学、そして今回量子力学と、近代が生み出した技術や論説とそれまで伝承によって受け継がれてきた習俗との関係性を描くのかと思ったら、割と近代寄りの方向性のような感じかな。近代以前の人たちが自然などに対して感じていた畏怖などを神だの妖怪だのといった人知を超えたものゝ仕業として処理していたものを、現代人が近代のもたらした文物を理解できない範囲ではファントムと称してあたらしい未知なる物として処理しようとする試みなのか。別に上記の文化人類学などの近代的な学問を駆使して、それなりに説明はできても基本的に根本的な解決はできないから、完全に処理しようとするのではなくうまく折り合っていかなくてはならないとか。結局封印ってのは、存在(問題の原因)をなくすのではなく、あくまで保留(問題の先送り)でしかないわけだからして。
 人間、知識を得ると瑣末なことは処理できるようになるのだけども、逆に知識が深まれば深まるほど解決できない問題というのが明らかになってくるだけでなく、瑣末なことを処理して全体の問題が減るのかと思えばこれまた逆に解決できない問題が増えてしまうという。今のところ本作品からそのような主張は感じられないが、今の人間が賢くなろうとしている方向性は果たして正しいのかどうかわかんないな。昔より処理できる問題数が多くなって賢くなったように感じるのは錯覚であって、むしろ昔より人類は不幸になっているのかも。別に馬鹿になる必要もないが、今必要なのは知識ではなくて知恵とかそういう類のものではなかろうかと思ってみたり。