幸腹グラフィティ 第4話

 リョウは寂しくなると死んでしまう生き物だったというお話。
 なんというか、おばあちゃんがリョウのために必死で料理を覚えたという流れだが、人のためというよりは、それが生きがいになってたんじゃね?という気がする。しかし、自分の子供のときにそれが発揮されるのではなくて孫のときというのがどうなんかね?といったところ。
 この作品の最初っから言われていることではあるが、自分の摂食のためだけの行為だと空しくて、人のためになると途端に素晴らしいものになるという構造がなんというか。そういうのを否定するつもりもなくって、そういうもんだろというのはあるのだが、日本が工業化の過程で政府に意図的に分断もされ、個人の側でも特に抵抗を示すことなく選択していった家族の崩壊というものが完成形に近づいている昨今で、今人とつながるためのツールとしての料理を礼賛されてもなというのがどうしても拭いきれない。地縁と血縁が不可分であった時代から、工業化に際して、そういう大家族的なものを担ってきた企業というものが、こゝにきて家族的経営から実力主義、正社員から非正規雇用と順を追って個人を切り離してきており、特に大企業の経営者は従業員だけでなく企業そのものですらカネ儲けのツールとして使い捨てにしてきている昨今で、そういう生きるというのを抜きにして食べることだけに特化してやれ人とのつながりだとかを述べられてもちょっと戸惑うというか、それでもホロリとしてしまう自分ってなんなの?というのがあって困る。リョウの両親はきりんとのつながりを描くために海外に赴任させられているという設定なのだが、なんか転倒してるよね。リョウはきりんと会えないことで精神的に不安定になっているが、両親と会えないことで不安定というわけでもなさそうだし、おばあちゃんを恋しがるというほどでもない。いや、もちろん両親とのことは頭で理解しているし、それに耐えて慣れもしたところ、きりんはあまりに賑やかで、その賑やかさに慣れたからこそ孤独が強調されたという描写にはなっているのでそのこと自体に不備はないんだけど、なんかこれからの社会は大企業本位制が続く限り人は個人としては孤独方面に行かざるを得ないんで、むしろそのへんは「旦那が何を…」のほうが生々しく感じる。とはいえ、二昔前ぐらいだったら「どんなに忙しくても食事だけは家族一緒に」という主張があったような気がするんだが、今となっては就業形態によってはそれが不可能な家族が増えてもいるので、食と家族(人との繋がり)の関係性を描くのはテーマとして難しくはなっているんだと思う。
 しかし、リョウの立ち位置はどう考えても主婦であって、いや彼女が予備校に通っているのは、専業主婦ではないとの暗示だとは思うんだけど、ちょっと雰囲気的に働く女性は意図してないんじゃないかという印象を受ける。そのへんこの作品は大きなおにいちゃん向けであって、おそらく女性は「ありえねぇ」と思っていそうではある。現実社会とのリンクを考えたらなんだかなぁとは思うが、そうはいってもこの作品はそういうのを意図してるわけでもなく情緒方面に振っているわけで、あんまり堅苦しく考えずにのんびり楽しむべきものなんだろうけどね。