帰宅部活動記録 第11話

 まさかの帰宅部結成エピソード。
 いや、まさかと思ったのも原作読んでない自分の勝手な思い込みではある。で、桜と牡丹の馴れ初めからのお話。しかしなんだな、自分の高校時代のことを思い出してみると、そんなに友達が欲しいという意識はなかったな。で、昔はどうだったんだろ?と考えてみると、農村では顔見知りばかりだろうし、それこそ生まれてから親だのが連れまわして村中知らないものはいないという状態だったのだろうという気がする。そこには未知の人間に対して自己紹介するという機会自体がなかったのでは?と思う。今や地域コミュニティは壊れてしまっているのであり、不特定多数が集まる学校で、目的意識抜きで仲のよい人間関係構築を迫られる現代のあり方は実はかなり不自然だということに行きついてしまった。
 で、今回の話を考えてみると、それが極めて本質的なものを描いているような気がしてならなかった。牡丹のことであるが、先ほどの農村の例で言えば、基本的に人間というのは共同体のなかである程度の繋がりがあるということのほうがあたりまえであり、もともと人間が孤立した状態というのは不安な状態であるらしい。しかし、もともと繋がりがないということはどうきっかけや関連性を持てばよいのかわからないということになる。共同体もしくは組織に属しておれば、役割が与えられているわけで、その立ち位置から他人を測ることができるのだが、現代だとそういうのが最初から無いからやれ趣味だとか部活だとか、属人的なものをきっかけにするしかない。まぁともかく、現代だとその人をその人足らしめる要素が社会的に与えられていないので、立ち位置が不安定であり、共同体的な安定感を求めるがために他人を求めやすい傾向が一定数見られるということになる。
 そして、社会的な役割が与えられないまゝ他人との繋がりを求めようとすると、それは結局「直感的」な他人への興味というものにしかならないという主張なり仮設なりなのかな。桜がなぜ牡丹に興味を持ったのかということ自体が既に説明不可であり、実際そこに理屈は必要ない。逆に理屈立てをして、これこれこういう態度なり振る舞いなりがよりよい友人を得る秘訣ですよというのを示されてもな。見掛けのよさや性格のよさなどがそれなりに有利だというのもわかるが、それだけでもないし、そうでない例もやっぱり多いわけで、友人関係といっても打算的なのもあれば、そうでないのもあろうし、そもそも人と人との関係性はあるが、友人関係としての優劣を述べてもなというのもある。グダグダ書いてしまったが、結局のところ友人関係に正解というものはないし、そもそもこの作品からして、どう友人関係を作るか?というよりは完成された友人関係を使ってコメディを組み立てゝいるだけの話で、まぁはっきり言って何も言ってないに等しいような気もする。桜はなぜ牡丹に興味を持ったのかについては偶然のようにしか描かれていないし、桜はあのような性格だからということしか言ってない。対して牡丹も友人が欲しいと切望していながら、終始受身の態度でしかない。もうホントたまたまでしかないんだよね。一言で言えば「縁」でしかないという。