シリーズ セカンドシーズン 第20話

 真宵退場の巻だった。
 いやはや、別れのシーンはジーンときたんだけど、怪異としての役割を果たさないものは物語に必要ないという骨格にはビックリさせられた。要するに、こういうのは社会に必要とされないものは除外するといった構造であり、それは現代日本の「経済的に役に立たないものは社会の構成員ではない」といった弱肉強食型金融資本主義のあり方を活写していて胸が詰まる。
 ヘンな話、おそらく真宵は生きるための糧を必要とせず、となれば無駄飯喰らいではないわけで、人を迷わすということを放棄しているというのは怪異としては役立たずなんだろうけど、人間には害を及ぼさず、で、阿良々木は人間と怪異の境界であるという特殊性はあるものゝ、その境界上で居場所を見つけており、そういうのはいわゆる多種多様な人間が共存するという、一昔前には良いとされていた社会構造ではある。しかし、そういうのを許さない上位構造があるというのがね。しかも真宵はなぜ怪異になったのかというと、それは交通事故という彼女自身には全く責のない出来事であったと思うんだが、で、阿良々木が歴史を溯って真宵を助けるというエピソードでは、育った真宵は善人だったわけだし、いや真宵にとってはなんとも理不尽なことである。
 で、いやなんだろうな?、別れをお涙頂戴の感動モノにしたことの意味だよな。意地が悪いとまでは言わないんだけど、そういう構造に気づけるかどうかでなんか視聴者をふるいにかけているというか、いや、そこまでとは言わないんだが、神気取りだった忍にしろ、真宵にしろ、怪異だとは言っても振舞いや考え方はフツーの人間であって、それに厳しく当たる現実というか上部構造をどう考えるかだよね。
 日本でいうと、高度経済成長期が終わり、バブルのコントロールに失敗してバブルが崩壊し、バブル崩壊からの対処法を失敗し、それから産業の建て直しを失敗し、で、失われた20年を経て、今またインフレ誘導で国民生活が窮乏してきており、それはまぎれもなく政財界の失敗であるわけなんだけど、貧しかった高度経済成長期前の国民生活では、まぁそれがよかったともいえないんだけど、人々の心は貧しさにも耐えることができ、また寛容さもあったのが、バブル崩壊後数年でだんだん不寛容になり、気がつけば中韓ヘイトスピーチが盛り上がるほど精神性が貧しくなってきているんだが、その不寛容になってきている社会で境界線上の人々が追い詰められていくそういう状態が描かれていると思うんだよ。いやはや視聴していてなんとも落ち着かないというか、胸が張り裂けそうになるというか、かといってそういう構造を自分が悶えても如何ともしがたいという無力感とか、そういうのが襲ってきてもうね。別れを美しく描いたから、それで納得しろといってるわけではないと思うし、いやでもこのように描いてそれなりに問題提起しているというか、でもそれはすごく話の筋としてはちょっとしたミスリード(とまでは言わないんだけど)のような気がして、いや、ゝっぱりもどかしいというか。
 まぁ少女の不意打ちのチューだから美しくもあるんだろうが、あれが男女逆だと今でなくともセクハラだろうとか、真宵がオバサンだったら美しくもなんともないだろ…とか思ったのは内緒だとして、美少女の切ない気持ちで背後の構造を見失ってしまってはすごくもったいない話なんだろうなと思ってみたり。