で、たまゆら曜日だ。

 上記の通り、なんかアニメ本編の描写に説得力が感じられたのでなんともな。ほぼろ焼きを食べに来る地元客なんて、別に自分トコで作れるだろうに、そうじゃなくって、コミュニケーションをしに来るんだろうと思わせる。自分なんか没交渉だもんな。しかし、こういうコミュニケーションって、得てして内輪受けで外部に対してはあまり開けていないって場合も多い。いや、もちろん内輪でも楽しく、外部も快く受け入れてみんなで楽しむってことができるところもあるんだろうけどな。
 そういうところに視点を移してみると、もともと交通の要衝で人と人との交流の多いところなんてのは外部からの人間との付き合い方がわかっていて、辺鄙なところではローカルヽール以外の要素は受け付けませんってのが多かったりするのかな?。いや、神様ドォルズだと、空守村はお客さんとして行くにはいゝところとか言ってたから、辺鄙なところは外部の情報に飢えていて、外部からの刺激はすべてが新鮮で大歓迎ってこともあるのかもしれない。
 となると、町興しなんて結局のところ人間の単純な通過数に拠るものなのか?。それはそれでさびしいな。結局のところ立地によるところが大きいって事だし。それを乗り越えるのであれば質であろうと量であろうと他を圧倒する産業を考えるしかないのかねぇ?。人の流通量でダメなら物の流通量で勝負という意味で。
 ふと考え付いたのだが、町興しなんて考えなくても町に活気があるところって、結局のところその町に目をつけた企業かなんかの外部にふりまわされていたりしないのかねぇ?と。前回も述べたとおり、その町に住む人間がその町のことを考える必要があって、あとは食っていけるかどうかだけの問題なら、集約すると自治(経済的自治と政治的自治)さえ成立すればよいってことだよね。逆に人が多くて栄えていても自治がなければ砂上の楼閣なんじゃないかと。