今考えると、福田内閣の時の「大連立」って、大政翼賛会の再現を目論んだものだったんだなと思う次第。

 190.東條英機陸軍大将(10)わが輩は、東條の靴の紐を結ぶために代議士になったんじゃない - 陸海軍けんか列伝 _

 「東条英機暗殺計画」(森川哲郎徳間書店)によると、昭和十七年四月三十日の総選挙は「大東亜戦争完遂」のため、政府・軍部に全面的に協力する翼賛議会の確立を目的としていた。

 東條はドイツのナチス流の一国一党ばりに日本の議会を翼賛議員一色にするつもりだった。

 代議士・中野正剛(五十六歳)が率いる東方会に対しても誘いをかけたが、中野は「このようなことは憲法の本義に反する」と語気鋭く拒絶した。

 選挙が始まると翼賛議員の看板を掲げない候補者に対する陰険、卑劣な妨害や選挙干渉をおこなわれた。史上悪名高い明治二十五年、時の内相・品川弥二郎が行った選挙大干渉と並ぶものだった。

 特に東方会選出の候補者に対する弾圧は露骨だった。その結果は前代議士十二名を含む四十七名の全候補者のうち、当選したのはわずかに六名に過ぎなかった。

 これに対し翼賛議員は、衆議院の定員百六十六名と同数の候補者を立てた。政府は彼らにあらゆる援助を行った。

 当時、陸軍省兵務局長だった田中隆吉少将は、戦後になって「当時翼賛候補者に対しては一人当たり五千円を軍事機密費から支給した」と暴露している。

 「生きている右翼」(永松浅造・一ツ橋書店)によると、当時、選挙が終わり、議会が召集された日に、著者の永松浅造(政治記者)が、翼賛議員の控え室へ立ち寄っていると、そこへ中野正剛がびっこを引きながら入ってきた。

 中野が憲政会にいたとき仲の良かった議員が「中野君、君は欲がないね。推薦議員(翼賛議員)で出たら、東方会からも二、三十名は大丈夫だったかもしれないよ。今度の議会は戦争が続く限り、解散はないし。惜しいことをしたもんだ」と言った。

 すると中野は「わが輩は、東條の靴の紐を結ぶために代議士になったんじゃない」と、吐き出すように言って、さっさと出て行ったという。

 昭和十七年十一月十日、代議士・中野正剛は母校の早稲田大学大隈講堂で学生を前に「天下一人を以って興る」の演題で東條首相を批判する大演説を行った。


 現在民主党に対して行われている検察による選挙妨害や、自民党が選挙大敗直後に二億五千万円を引き出した内閣機密費が、実は自民党選挙対策費として長年使い込まれていたこととか、もう、昔軍部がやっていためちゃくちゃなことと全く同じ。
 しかし、このブログ面白いな。結構すらすら読める。東條英機が実は開戦反対派とか書いてあるんだけど、そこはめくらましで、いろんな文を読んでみると、東條が引き金を引いたことが浮かび上がってくる。やっぱ先の大戦は負けるべくして負けたというしか。

 「東條英機陸軍大将」のブログ記事一覧-陸海軍けんか列伝__

 四月六日、東京市内で雑炊食堂が新設されつつあったので、閣議後のこの日の午後に雑炊を供した。ところが、東條首相は次の様に言った。

 「雑炊も結構だが、閣議後の食事は十分ご馳走をして閣僚が楽しみに集まり、和やかに懇談できるように心掛ける方がよりいいのだ」。

 東條首相がゴミ箱のふたを開けて歩いたという話がある。それは批判の対象になったりしており、有名な話である。東條首相は人の好き嫌いが激しく、人間的に嫌っていたという軍人の一人に山下奉文陸軍大将(陸士一八・陸大二八恩賜)がいる。

 その山下大将が新聞記者に語ったという、次の言葉は注目に値する。

 「そんなチッポケなことは、それ、あのゴミ箱を開けている男に聞きたまえ」

 これは、二人の将軍の関係をよく語っているエピソードだ。

 十月二十四日夜、東條首相は秘書官・赤松貞雄大佐に命じて、首相官邸に、岩村法相、安藤紀三郎内相、松坂広政検事総長、町村金吾警保局長、薄田美朝警視総監、四方東京憲兵隊長らを集めた。

 会議で東條首相は、中野を起訴することを主張したが、法律上できないという結論になった。次に中野をこのまま留置して議会に出させないようにしたいと主張したが、それも難しいことが分かった。

 東條首相は「戦争に勝つためだ。なんとかしろ」と皆に言ったが、相手が国会議員だけに慎重になっていた。

 そのとき、四方東京憲兵隊長が「総理、私のほうで、何とかします」と言った。

 十月二十五日午前四時半、中野は、警視庁の独房十号から、憲兵隊に移された。それぞれの独房にいた三田村と天野は、ほの暗い裸電球の下を、中野が不自由な足で去っていくのを見送った。それが、二人がこの世で見た中野の最後の姿だった。

 中野が釈放されて、代々木の自宅に戻ったのは十月二十五日午後二時であった。憲兵隊は中野に「ある青年に、日本は負けると言った」と自白させていた。その上、「明日からの議会には出席しない」と中野に承知させた。

 中野が自白し議会欠席を承知したのは、今後の取調べで、皇族、重臣に迷惑を及ぼしてはならないと考えた。同時に自決の決意をしたのだった。

 十月二十六日深夜、自宅一階の書斎で、中野正剛は割腹自殺を遂げた。五十八歳だった。隣の部屋には憲兵二人が見張っていた。

 自殺の前に、常に居間に飾っておいた写真を取り外していた。それは、自分とヒトラーが並んで写っている写真だった。

 かつては日独伊三国同盟の推進者で「米英撃つべし」の主唱者、中野正剛も、死の前にはリベラルの政党人に戻っていた。

 自決の具体的な理由は不明だが、一説には徴兵されていた息子を前線に送るぞ、と憲兵に脅迫されていた。息子の安全と引き換えに自殺させられたという。

 「昭和の将帥」(高宮太平・図書出版社)によると、中野正剛が自殺してしばらくして、軍事評論家の高宮太平が東條首相に会ったとき、高宮と東條首相の間で次の様な会話が交わされた。

 高宮「中野さんが自殺したですね、世間では閣下が殺したと言っていますが」

 東條首相「ふん」

 だが東條首相が一歩早く手を打った。昭和十八年十月二十一日午前六時、警視庁の特高約百名を動員して、中野の東方同志会、天野の勤皇まことむすび、それに勤皇同志会の三団体の幹部約百数十名を検挙した。

 中野の逮捕容疑は、倒閣工作を謀ったことと、ある青年に「日本は負ける」と話したことが名目上の理由だった。

 中野正剛が収容されたところは、桜田門にある警視庁の留置場・独房十号だった。中野は以前、三田村や楢橋渡代議士に「ぼくは片足がない。投獄されれば、苦痛は常人に倍するだろう。面倒くさいから、腹を切って死ぬ」と言っていた。

 中野を検挙したことに東條首相は大満足だった。だが、警視庁の取調官は、証拠となるべき自白も傍証も得られなかった。行政執行法では二日以上検束してはならないとなっていた。

 だが、東條首相は自分の権力で内相を通じ、二十四日まで検束して取調べを行わせた。それでも、中野は自白もせず、傍証も得られなかった。

 中野の逮捕を知った鳩山は大木操衆議院事務総長とはかり、「二十五日には臨時国会が召集される。ただちに中野を釈放しろ」と内務省に抗議した。徳富蘇峰も釈放運動に動き出した。

 東條首相は焦ったが、とりあえず釈放するしかなかった。だが中野を議会に出席させたら何を仕出かすか分からなかった。


 ブログの記述順に引用しており、時系列は逆になってます。ここで一番上の引用に続きますが…。

 前田中将は三国同盟に絶対反対の立場をとっていた。また、無謀な戦争は極力回避すべきと主張していた。前田中将は「東條は先の見えない男だし、到底、宰相の器ではない。あれでは国をあやまる」と言っていたという。

 酒井美意子氏によると、前田中将は昭和十七年九月五日、軍用機でラブアン島に作戦命令で飛行中に、ビンヅル沖の海に撃墜されたとのことだった。

 現地で軍葬が執り行われる直前に、「戦死という字を使わず、陣歿とせよ」という指令が内地からきたので、弔辞を書きかえたりして大騒ぎをしたそうである。飛行機事故であるが、墜落原因ははっきりせず、事故死と推定された。だが、後日、「戦死」と訂正発表された。

 後に、インド独立軍のチャンドラ・ボースが、日本と共にインドへ進軍するために、日本軍の数と装備について、寺内大将のところへ調査に来たことがあった。

 ところが、そのあまりの兵力の乏しさ、装備のあまりの劣悪さに、チャンドラ・ボースは驚愕して顔色を変えて嘆いた。寺内大将はそのとき、次の様に言って笑ったと言われている。

 「フィリピンのラウレル大統領にしろ、君にしろ、あの東條のような大馬鹿者の言うことを聞くから、大きな間違いをするのだ」

 当時、世間でよく言われた「二キ三スケ」とは、東條英機星野直樹松岡洋右鮎川義介岸信介のことだった。

 東條は政治家や官僚の仲間が全くいなかった。満州関東軍参謀長時代に知り合ったこれらの人物以外にはいなかったのである。東條はこのような連中を私宅に引っ張ってきた。

 これらの連中は、山田中佐の仲間では至極評判の悪い連中だった。

 山田中佐は東條首相に「世間の評判を知っていますか。あんな連中を使って、将来ロクなことになりませんぞ」と言った。

 すると東條首相は「だまっとれ!子供になにが分かる」と落雷した。陸軍中佐をつかまえて、子供あつかいだった。そのあと東條首相は「嫁さんもらって、すぐ離縁できるか」と言ったという。

 昭和九年、東條は陸軍少将で陸軍士官学校の幹事だった。「東條英機・その昭和史」(楳本捨三・秀英書房)によると、東條の仕事に対する性格を示す話がある。

 幹事が士官学校生徒の講評をするのは当然のことだ。ところが東條少将はすこし違っていた。士官学校には馬が千五百頭余り飼われていた。

 東條少将は、生徒の講評だけでなく、いちいち検査して、馬の講評を下した。「生徒の講評は、教官、幹事の義務かも知れないが、馬の検査の講評をやったのは東條くらいのものであろう」と言われている。

 

 しかし、当時の軍部もかなり対米戦争反対という良識派がいたっぽいな。それを押し切って国を滅亡させた東條って…。まぁ政権末期の自民党の有様と酷似してるわな。