パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本 (アスキー新書 54)読了。

 出張中に読んでいたのだが、結構面白かった。ブログのエントリーがはてなのトップページに人気記事として挙がることが多く、読んでみると鋭いながらどっかズれているなと思っていただけに、これは嬉しい誤算だった。かなり平易で読みやすく、話題の振り方とかに感心。内容的には多分だれもが感じていることをまとめているような印象を受けるが、この人自身の経験に裏づけされていて、中曽根行革(というかプラザ合意)以降の時代の流れがスッキリ書かれているように感じた。
 まず、昭和中期の堅実な経営としての次の文章に戦慄した。

 午前中には国内やそのほか海外向けの種々の仕様のアコードが流れてくる。こまごまとした違いにより取り付ける部品やその位置が違うため、部品の棚を動かしたり、人があちこちに動いたりと実に賑やかだ。ところが午後になってアメリカ向けのアコードが流れ始めると、ラインはしーんと静まり返る。同じ仕様の車が延々と続くので、人がごちゃごちゃと動き回る必要が無い。人が動けば手間もかかり、それだけコストが上がるので、ラインは静かなほど低コストである。部品も大量に納入されるので、品質も安定する。数量が大きければ、その分、製品の品質もよく、コストも安くなる、という現実を、静々と威圧するように流れるアメリカ向けアコードは無言で語っていた。

 もう一つ。

 ブランドが本当に価値を発揮するためには、世界中のどこでも、品質やアフターケアがそれに見合うものでなければならない。競合相手が安値攻勢をかけて代理店が対抗値下げを要求してきても、安易に値下げをせず、その代わりに補修部品の在庫を増やせ、と上司に嫌になるほど何度も言われ続けた

 時代も違ってきているし、この方法が今でも通用するとは限らないんだけど、こういう上司はもう数として激減しているよね…。この人がホンダに就職したのは'80年代の初めの頃だから、オイルショックでホンダが省エネエンジンで世界に羽ばたいていく過程を知っている上司だったということだろう。でもあの頃のホンダのエンジンは良く壊れていたような気がする。だからこそ補修部品の重要性ってのは身に沁みていたのだろう。ちなみに国内ではトヨタがこういう方法で信頼を得ていたというのは言うまでもないことか。
 しかし、面白いのはやっぱりこの時代の企業人ってのは、やっぱり商売の基本をわかっているってことだ。で、日本の消費者ってのは昔からバカだったんだなぁという気がする。クルマに関していうと、多品種少量生産をホンダは国内向けでは余儀なくされていたってことだろう。自分がクルマに興味を持ち出した頃に驚いた事は(まぁ若かったからバカだというだけの話だが)、スポーツタイプのクルマにしても、シャーシやエンジンはよくある大衆車と共通であって、ボディの格好だけで違いを表していたってことだ。だが、その外見に日本の消費者は金を出していたということになる。要するに中身が一緒なんだったら外観の違いにこだわるなんてバカと見切っていたアメリカの消費者のほうがよっぽど見る目があったってことなのかな。そうはいっても、その外見の違いに日本人は金を払うんだから、しかたなしに多品種作ってやるかって企業サイドが思っていたんだろうってのは興味深い。
 それが今やモノの本質は何か?というのを忘れ、コストに対する考え方がすっとんちきな経営者が特に大企業を中心に増えた。ワガママな消費者に安易に迎合し、企業体力が落ちるのも平気で目先の利益だけを優先してきた。ヘンな話、もうこの人がホンダにいた頃から現場(のまともな人)には「どうせ消費者にはモノの価値はわかりっこない」って雰囲気が蔓延していたと考えられるだろう。確かに平凡な製品を作りつづけたところで、後に来たバブルの狂奔の波にのれなかっただろうし、また堅実な考えをもつ人は経営サイドに加われなかっただろう。まさにポイントオブノーリターンの時期だったに違いない。
 さて、この人がありうべき日本の将来…というか産業構造については

 常にイノベーションを起こし、最先端の技術を生み出し、時代を先取りしたサービスや製品を作り、世界市場で効果的に販売することで、コスト競争力のある新興工業国やBRICs諸国と差別化を図っていくこと以外にない。

 と述べている。また

 自分なりの「好き」を貫き、これまでにない仕事や生き方を試行錯誤で作りだしていくやりかたを「けものみち」と呼び、ウェブ時代の新しい考え方として提唱している。

 と梅田氏の考え方を紹介、同意している。で、このようなベンチャー色の強い人を、資金力のある個人や企業がパトロンとして支援すればよいとか、実際にアメリカではそういうことをしている富豪もいるって話だ。
 そして日本を振り返ってみれば、大正や昭和の初期にはこういうことがあったよねとか思い出してしまった。たしかホンダやソニーも元を辿れば、やっぱり資金力のあるパトロンを捕まえていたって話だし。今は違うよね。企業人は搾取して自分だけが豊かになることばかり考えていて、パトロンに近いことをやっているかと思えば、カネが還流して自分のところに帰ってくるような仕組みだったり、個人崇拝をもとめるものだったり。大抵タックスヘブンに個人資産を溜め込んでる。
 で、出張のときの地方の疲弊の実感にかこつけてってこともないんだけど、やっぱり地方は独自色を出すしかないって思う。重なり合う部分が大きいのかどうかわかんないが、それがこの本の自分なりの「好き」を貫きだの、ロングテールの部分だったりするのだ。都会のマネをしても、所詮マネをしきれるものでもなく、陳腐で卑小なコピーに過ぎなくなってしまうわけで、同じ部分で勝負したってダメなのだ。やはり独自色に頼るしかない。だが、そうなると公式なんてないよってことになる。具体案なんて地元の特色を自分で見つけ出して自分で考えろってことだ。しかし、自民による利権構造がいまだ存在し、地方からはモノも人も奪われて自主性も地域色も失われてしまっている今、安易に地方への権限委譲ったって、そうそう物事が上手くいくってワケでもないんだよな。