M資金、郵政私物化の回顧。メモ。

 M資金について 魚拓が使えないので全文引用。

投稿者 トッテンさんから転載 日時 2001 年 6 月 15 日 12:25:10:

題名:No.474 M資金について


From
:
ビル・トッテン
Subject
:
M資金について
Number
:
OW474
Date
:
2001年6月13日


 米国のCIAが、共産主義の拡大を防ぐなどの目的で自民党に多額の資金援助を行ってきたことが、1994年10月19日付けの『ニューヨーク・タイムズ』紙の一面で取り上げられ、このOur Worldシリーズでも紹介しました(詳しくは、Our World「自民党のスポンサーはCIAだった」(No.14)をご参照下さい)。今回は、『エイジアン・パースペクティブ』という雑誌から、戦後日本にずっと存在してきたといわれる秘密資金に関するノーバート・シュレイ氏の論文をお送りします。日本の真の民主化を阻害するために使われているというM資金の存在について言及したものですが、日本では、詐欺事件で経営陣が退陣する企業が多く出ていることなど、M資金そのものより詐欺事件として注目されることが多いようです。

 冒頭の日本政策研究所所長、チャルマーズ・ジョンソン氏の紹介文にもある通り、シュレイ氏の論文の信憑性をここで保証することはできませんが、日本の戦後の自民党政治を考察する上では重要と考え、あえて紹介することにしました。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

ビル・トッテン

M資金について

チャルマーズ・ジョンソン 

 M資金は、日本の戦後史の中でも極めて曖昧な話題の1つである。1970年代後半から1980年代、日本の詐欺師たちは、M資金の持つ怪しげな印象や、今も存在するとの見方を利用しては、富士製鉄、全日空東急電鉄といった企業経営者を騙してきた。以下に紹介する論文の著者シュレイも、高野孟が『M資金:知られざる地下金融の世界』(日本経済新聞社刊)で紹介した人々と同様、M資金詐欺の虚説に騙された可能性もあることを指摘しておく。

 ノーバート・A・シュレイは、エール大学ロー・スクールを首席で卒業し、ケネディおよびジョンソン政権では司法長官補佐を務めた。1962年、ミシシッピー州立大学に入学を申請した黒人学生を州当局が拒否したことから発生した暴動で軍隊が出動した際には、司法長官ロバート・ケネディの補佐役を務めていた。ロサンゼルスのヒューズ・ハバード
&リード法律事務所の創設パートナーだった。

 シュレイは数十人の日本人投資家を代表する弁護士として、日本政府が偽造と主張する国債還付金残高確認証を大蔵省に認めさせ、還付させる裁判を起こした人物である。『ニューヨーク・タイムズ』紙に対してシュレイは次のように語っている。「これは債券ではなく“国債還付金残高確認証”であり、政治資金に捜査の手が及ぶのを恐れた田中角栄が、自分とはゆかりのない人々の名義にするために、通常とは異なるルートで秘密裏に発行したものである」。シュレイによれば、この国債還付金残高確認証は、鈴木内閣当時の渡辺美智雄蔵相によって1982年に発行されたものだという。さらに、この詐欺事件の当事者として米国政府に訴えられる以前から、シュレイはこの件で日本政府と交渉していたと述べる。

 シュレイはフロリダ州タンパの連邦裁判所で1995年1月5日に有罪判決を受けたが、その後、上訴裁判所はこれを覆した。事実や法律の詳細がまだ解明されていないため、裁判は終結していないが、米国の裁判所が戦後日本の内部工作の事実を解明する可能性は低く、かつ日本側の事情が米国の陪審員に正しく提示され、理解されることはないだろう。
しかし、1947〜1972年頃のM資金の存在に関する証拠は、シュレイの依頼人の発言以外にも数多く残っている。

 以下に紹介するシュレイの備忘録にあるように、M資金の「M」は、マッカーサー元帥の側近の一人、ウィリアム・フレデリック・マーカット少将の頭文字である。マーカットは経済の専門家ではなく、連合軍最高司令官の経済科学長として、占領時の財閥解体を担当した。マッカーサーは占領中、政治に影響を与えるためにM資金を利用し、さらに朝鮮戦争勃発後は自衛隊の前身である警察予備隊の設立という政治的に困難な目的を達成するためにこの資金を利用した。

 高野孟の著書『M資金』によれば、M資金はいくつかの資金が組み合わされて生まれたものである。まず「四谷資金」は軍情報部および対敵諜報部隊のウィロビー少将によって闇市の活動から集められたもので、反共計画に使われた。2つ目の「キーナン資金」は、東京裁判の首席検察官ジョセフ・B・キーナンの名にちなんだ資金で、元は没収財産である。そしてマーカットが管理していたのがM資金で、工業用ダイヤモンド、プラチナ、金、銀など、旧日本軍が占領地から奪った物資をGHQが接収して売却した資金や、財閥解体後の株式の売却益、さらにはガリオアまたは「見返り資金」と呼ばれる、米国からの援助物資および石油などの認可輸入品の売却益(ドルに交換できない円)がそれに加えられた。占領が終わった時、この3つの資金がM資金に統合された。そして、1950年代末にニクソン副大統領から岸総理大臣に管理が移管されるまで、M資金は日米双方の管理下に置かれていた。シュレイの備忘録には占領後の資金の使い道、また伝えられるその後の経過について記されている。極めて巨額なM資金は日本経済の復興のための産業プロジェクトに使われ、またその後アジアの工作活動にも利用された。

 シュレイや彼の依頼人といった罪のない人々が犠牲にならないよう、また日本の戦後の民主主義について何の疑いも持たない学者が、ある日、新たに機密解除された公文書で不意打ちを受けることがないよう、M資金のような事柄についてきちんと把握しておく必要がある。


日本のM資金に関する
1991年1月7日付け備忘録


『エイジアン・パースペクティブ』誌 
Vol. 24, No.4, 2000
ノーバート・A・シュレイ


 この備忘録は、40年以上にわたり日本に存在し続けてきた巨額の秘密資金、いわゆる「M資金」についてである。この資金は戦後間もなく米国が設けたもので、その理由はドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)を含む西ヨーロッパに対し、マーシャルプランとして援助を開始したのと、基本的には同じである。

 当初、M資金は完全に米国が管理し、日本の関わりは純粋に助言的なものに限られていた。しかし、その後M資金の管理が日本人の手に移り、そこからM資金の濫用が始まった。以来、このM資金は明らかに日米両国の利益に反する目的に利用されている。


【 背景 】

 日本軍が降伏し、1945年9月2日にマッカーサー元帥率いる米占領軍によって日本に軍政が敷かれた。戦後初期、マッカーサーは日本に民主制度を確立し、荒廃した経済を立て直すためには資金援助が必要だと考えた。民主勢力に幸先の良いスタートを切らせるには、政治活動資金として秘密資金の準備が不可欠だとマッカーサーは確信したのだった。

 こうして、終戦時に日本軍が所有していた金や貴金属を使ってそのための資金が用意された。それらは元々は日本軍が戦時中、中国、韓国、台湾、フィリピンなどの占領地で強奪したものであり、終戦時に米国に委譲され、もはや日本の国有財産ではなかった。そのためマッカーサーは、米国での正式な法手続きなしにその富を利用することができた。さらにその額は当初考えられていたよりもはるかに規模が大きかった。後に、いわゆる見返り資金(被援助国が贈与分と等額の自国通貨を積み立てたもの)と呼ばれる、米国がドルに交換できない日本円もこれに加えられた。

 この新しい資金は、主に吉田茂首相から出される、助言的な情報に基づいてGHQ本部が管理していた。そして、この資金の内情に詳しい人々の間では、その創設と初期の運用に関係していたマーカット少将にちなんで「M資金」あるいはマーカット資金として知られるようになった。また吉田首相の関与から、吉田資金と呼ばれることもある。

 M資金は、日本に民主的な政治制度を確立させるためだけでなく、ヨーロッパでマーシャルプラン資金が使われたのと同様に、日本経済の復興に使われた。M資金から低利子あるいは無利子の長期的な融資が、石炭、鉄、造船、化学肥料、電力など日本の主要産業に提供されたのである。

 1950年に朝鮮戦争が勃発すると、在日米軍が韓国に移動したために日本の公的秩序の維持に空白が生じた。これを埋めるために、現在の自衛隊の前身である警察予備隊が組織されることになったが、日本国憲法が軍隊の維持を禁じていたため、日本政府には新しい兵力を組織する費用の用意がまったくなかった。そこでマッカーサーは、その費用としてM資金から200兆円を拠出したのである。

 1951年9月8日、日米間に講和条約が調印され、これによって米軍の日本占領は終わったが、日米安全保障条約が締結され、1952年4月28日に発効した。講和条約および安保条約の付帯条件として、日米両国は、M資金を日米両国の共同管理下に置くという秘密条約を締結した。

 1950年代の後半、日本側は1952年の安全保障条約の条項に不満を示し、改正を要求した。それに応じて、アイゼンハワー大統領は改正の交渉を進めるため、特使としてニクソン副大統領を日本に送った。ニクソンと岸首相の間で広範囲にわたる交渉が行われた後、安保改正が決定、衆議院本会議で強行採決後、1960年6月23日に成立した。

 安保改正とともに、ニクソン副大統領はM資金の管理を日本にすべて任せることに合意した。ニクソンのこの行動は腐敗した政治的駆け引きの一部だったのではないかといわれている。すなわち、ニクソンは大統領就任への支援と引き換えにM資金の管理を日本に任せ、大統領になった暁には沖縄を日本に返還することを約束したというものだ。しかし、M資金の管理を日本へ移管する表向きの名目は、戦争勃発の際に日本に緊急資金が必要になるというものだった。そうした事態になれば日本は極めて脆弱である。というのも軍隊保持を禁じた憲法が、防衛資金の準備にとってひどく足かせになるからである。日本側は防衛資金が本当に必要になった際にこのM資金の有用性をさらに増すため、日本の管理下に置かれた後、M資金を大幅に増殖させることに合意した。

 1960年当時、12.3兆円と考えられていたM資金をさらに積み上げる任務を担ったのは当時池田内閣の蔵相だった田中角栄であった。そのために必要な資金は、戦後の賠償を必要としない敵性外国人(米国や連合軍の国民)から戦時中に政府が没収した土地を売却することによって用意する計画だった。

 1960〜1970年の10年間に、田中角栄は第三者を介して1,681件の不動産を売却し、7.9兆円の利益を上げた。田中が使った手口は、自分が指定した第三者に個人的に不動産を低価格で売却した後、今度は第三者に市価でそれを売却させ、売却益をM資金に送金させるというものだった。これについて国会で公明党から質問を受けた佐藤栄作は、この手口が明るみに出ることを恐れ、1970年にこの操作を中止した。

 1991年、M資金は60兆円以上という途方もない規模に膨らんでいる。M資金は日本の政治を独占し、日本経済の主要勢力となっている。しかし、驚くべきことに、今なおこれは秘密資金であり、他のほとんどの国にも、また日本国民の大半にも知られていない。さらに驚くべきは、以下に記すように、この資金は日本政府でも自民党でもなく、個人から成る少数の人間によって管理されてきた点である。


M資金の管理と濫用 】

 アイゼンハワー政権末期にニクソン大統領が行ったこと、意図していたことの実体は、これまで決して公にされることはなかった。岸首相およびその支援者が、政府や他の組織の支配をまったく受けない個人としてM資金を管理するとニクソンが知っていたとは考えられない。しかし、実際は、岸首相以来、M資金はずっと個人による民間保有になってきた。その個人は、M資金から巨額の資金を個人的、政治的な目的に充当できると考えたのである。この資金は国家の資産でもなければ、政府あるいは他の組織の管理下に置かれているわけでもなかった。

 1960年以降、M資金を管理してきた人物はすべて自民党とつながりがあり、自民党による政府支配の継続を望んできた。しかし、こうした人物がいわゆる自民党そのものの支配下にあったことはなく、M資金を管理する者と党の指導者がまったく違う場合も多かった。例えば、田中角栄と彼が指名した人物によるM資金の管理は1986年まで続いた。田中角栄ロッキード事件収賄で有罪となり失脚した後も、彼による管理はずっと続いたことになる。

 1991年、海部首相はM資金の管理についてまったく口を挟まなかった。日本で最も影響力のある黒幕、竹下登でさえ、1986年にM資金の管理権を握った中曽根元首相とその指名者から、その権利を奪うことはできなかった。中曽根元首相とその指名者らは、1991年当時、政府および自民党の主要な立場から退いてすでに随分たっていたにも関わらず、このM資金はしっかり保持していた。

 M資金は秘密主義で、かつ政府や組織に管理されていなかったために、人々の記憶に残る、世界のどんな政府の不祥事さえも些細に感じるほどひどく濫用されてきた。M資金の濫用は日本に管理が移った当初から起こり始め、ニクソンからM資金の管理を任された岸が1兆円の財産を自分のものにして以来続いている。M資金を最も長く管理したのは田中角栄であり、10兆円を個人資産としてスイスのユニオンバンクに預金した。M資金を個人財産として着服した他の例としては、佐藤栄作夫人(3,000億円)、中曽根派で官房長官を二度務めた後藤田正晴(600億円)などが挙げられる。

 日本国民および世界はまだ知らされていないが、中曽根管理下のM資金リクルート事件にも関与していた。国民が知っているのは、リクルート事件で動いた資金は比較的小額で、リクルート社が政府の政策に影響を与えようと、約200人の政治家に賄賂を贈ったことだけである。竹下首相が辞任に追いやられたのは、政治献金あるいは竹下氏にとっては合法的な方法で、約150万ドルが竹下と彼の仲間に渡ったためだった。しかし、こうした出来事の根幹には、リクルート社そのものが、実際には中曽根の個人的利益あるいは政治的な目的を満たすためにM資金によって設立され、資金援助されていたということが挙げられる。

 中曽根が1986年にM資金の管理を任されたとき、リクルート社は情報、広告、不動産分野でビジネスを行う小規模企業に過ぎなかった。リクルート社の会長江副浩正は、中曽根の古くからの友人で、支持者でもあった。中曽根の要求で、M資金からリクルートに対して1.7兆円の銀行融資が提供された。(それに比べ、世界最大の製鉄会社、新日本製鉄の銀行債務は1.2兆円、リクルートよりも何百倍も大きい西武百貨店グループの銀行債務は1兆円だった。)リクルートから政治家にわたった賄賂は、元をただせばM資金だったといえる。

 M資金は政治がらみの殺人にもつながったと伝えられている。日本の多くの人々の間では、佐藤栄作元首相は、報道通りの脳溢血ではなく毒殺だったと信じられている。噂によれば、佐藤の死は、M資金の管理を巡る田中角栄との対立が頂点に達した時に起こったという。対立は最終的に決着し、M資金から佐藤の未亡人に3,000億円の香典が支払われ大きな事件にならずに済んだ。

 最近では、恐らく自殺だと思われていた竹下の秘書、青木氏が、実際はM資金の秘密保持を願う人々によって暗殺されたといわれている。死亡する数日前、M資金の運用について詳細を知っていたと思われる青木氏は、次の自分の証言で明らかになる汚職事件に比べれば、リクルート事件など取るに足りないと数人の友人に語っていたという。

 一国および国際的な観点から、M資金の濫用による影響は、決して上記の例だけでいい尽くせないほど深刻である。政府や組織による制約のない人物が思うままに管理しているM資金は、日本が真の民主国家になるのを妨げているといえる。今日、日本は、汚職や不正にまみれているものの、40年以上(1991年時点)にわたり日本を一党支配してきた政党のもと鉄の管理下にあったのも事実である。

 巨額のM資金があったがため、自民党に対抗できる政党が育たなかったのだ。日本では、共産党以外、社会党を含むすべての政党がM資金の分け前を手にし、その施しに依存してきた。自民党に対抗できる政党はなく、M資金が日本の政治過程を静かに堕落させている限り、それに対抗できるような政党は出現しないであろう。

 同様に、日本経済も、M資金の金の力によって人為的に刺激が与えられ、由々しく歪められてきた。中でも大きな影響といえるのは、地球上どこにも類を見ない、200億ドル以上の財産を持つ大実業家層を作り出したことである。通常の政治、経済プロセスを覆すために巨額の富を利用して、実質的に日本という国を動かしているのは、まさにこうした大実業家である。捜査や追及の手が完全に及ばない状況で、佐藤や青木、さらには田中角栄の運転手など目障りな人物を排除できるのもこうした財界人である。

 悲しいことに、今日、日本は政治、経済の両面において、かなり全体主義的傾向を帯びている。全体としてこのように見えるのは、米国政府によって提供されたM資金が、その資金を管理する者によって、不正に利用されてきたからである。


http://www.billtotten.com/japanese/ow1/00474.html

 http://www2s.biglobe.ne.jp/~mmr/glocal/2005/675/sataka.html 魚拓
 http://www.kishida.biz/column/2005/20050406.html 魚拓
 うーん、振り返ってみると、やはり郵政民営化の時に正しい情報を発信していた人はいたよなぁと。