冴えない彼女の育てかた 第12話

 これで主人公作のゲームがバカ売れという展開までやるのは無理があるという気がしていたが。
 いちおうゲーム製作途中というところで第1期は終わりということらしい。実は3月に加藤恵が表紙のドラゴンマガジンを書店で見かけてパラパラっとめくってどうなんだろ?と立ち読みしてみた。なんか大後悔。てっきり昔のアニメ雑誌のように、概略だけ紹介して浅いキャラの掘り下げぐらいが記述されているのかと思ったのだが、短編小説が掲載されており、そこに今までのあらすじがあって、それで今後の展開がまるわかりという。
 最終回の見どころは、担当回キャラである氷堂(バンド)の見せ所があって、やはりというか、ライヴ風景の描写、ほんでもって第2期へのヒキがあっていちおうの〆。自分にとっては加藤というか、ゲームのメインヒロインの存在意義に大いに疑問を感じていたが、調整役というのがハマリ役になってた。どうせオタクの妄想を叶えるご都合主義的な存在というのがラノベのキャラだったりするが、その立ち位置を含みながらちゃんとした役回りを原作者が与えていたのが驚き。といっても、普通に秘書役ではあるので、物語的にそれほど新しいわけでもないんだけど、加藤と他のキャラとの距離感覚を見るにつけ、ヴァリエーションとしてはそこそこ洗練されているとは思う。
 この作品の評価は個人的にちょっと難しくて、その要旨としては、過度なメタ表現、テンプレ通りのキャラやエピソードの組み合わせであって、作者自体のオリジナリティが見えにくいから一見低評価のオンパレードであるんだけど、なぜか視聴最中は割と引き込まれてしまう、それはなぜか?ということ。もちろんコストをかけた丁寧な作画、テンポのよいかけあいや絶妙な間の取り方、ポップで魅力的な楽曲など、別にこの作品特有ではないんだけど、かなりクォリティが高いのはあるが、この作品から、そういうほかでも見られる要素を削りに削ってそれで最后に残るものは何か?というのを考えたときに、大抵の萌え作品はあとには塵一つ残らないのではあるが、この作品には何か残るものがあるんでないの?といったところ。何度も繰り返すが、この作品を構成している要素にはほとんどオリジナリティがない。普通視聴者(読者)は、そういう作品に対して、「この作品はどっかで見たようなものばかりでつまらない」という評価を下して見向きもしないと「考える」のが普通である。
 キャラに関していえば、オリジナリティにこだわっているのはおそらく霞ヶ丘ぐらいで、といっても彼女ですら本当にオリジナリティを求めてあがいている小説家なのかどうかも疑わしい。主人公は作中で王道を力説しているぐらいだから、オリジナリティからは遠いところにいる存在だろうし、澤村は二次創作の同人作家だから、作家といってもむしろ消費者に近い存在。霞ヶ丘も、主人公の作るゲームでは説得どおり王道展開の物語にしているだろうから、おそらく主人公が作っているゲームは、オリジナリティがほゞ皆無の「ぼくのかんがえたさいきょうのげぇむ」にしかならないはず。本作にメッセージ性があるとして、それが第2期で語られるかどうかはわかんないのだが、少なくともこのゲームが冬コミで売れたか売れなかったかという結論を出しているのだとすると、そこに何らかの形で現れるのではないかと思われる。現時点ではいくつかの候補ぐらいしか思いつかないが、例えば「おもしろさにオリジナリティは必要なのか?」というもの(といってもコピー作品であってはならないが)かもしれないし、テンプレ満載の作品に対しての支持をやめない萌え豚へ対しての抗議かもしれないしで、とはいえ、その根にはやはり作品としての面白さとは何かぐらいは仕込まれていそうではある。
 あと、この第1期でのポイントは、クリエーター?の動機なのかなというところ。大体にしてキャラを見渡してみると、貧乏人がいない。生活のために自分のクリエーターとしての才能を切り売りする(搾り出す)必要性がまったくないという設定がなされており、食うためというものから開放されているのになぜ彼ら彼女らはそれでも創作活動をやりたいと思い、苦しくてもやめないのか?というところは提示されていると思う。澤村や霞ヶ丘は、性格に難アリということになってはいても、それでも学校一の美女であり、彼女達が望めば、別に性格を問題とせず付き合いたいと思う異性はたくさんいるのであり、創作活動なんぞやらなくてもいくらでもおもしろおかしい学校生活を送ろうと思えばできるのに、そうでなくて、敢えて時間に追われて頭をひねる作業を選択しているという設定になっている。いや、そりゃ数の上からすると容姿のよい男女は、その自分の持っている武器を存分に発揮して学校生活をエンジョイするというほうが圧倒的に多そうではある、しかし、こゝで提示されている主題は「クリエーターと呼ばれるものたちはなぜ一般的な欲望より創作活動のほうを選んでしまうのか」というところだろう。主人公にしてから、彼はクリエーターとしてはオリジナリティとしてのかけらも、絵もテキストの才能も現状全くないにも拘らず、しかも別に世の中に出ている商業・同人作品を買い集めてそれを楽しんでおればよいだけなのに、なぜに無謀にもゲームをつくろうなどゝ思ったのか?というところがある。霞ヶ丘に関しては、主人公のブログでの紹介で売れた恩はあろうが、基本彼を自分の理解者だと思っており、かつて彼女が新作の感想を主人公に求めながらも、商業作家として一人前となり、主人公の説く王道展開に戸惑いながらも、ゲーム作りに参加することによって、読者との距離のとり方を模索するという形になっている。また、澤村は(彼女もまた主人公を自分の理解者だと思っているのだが、)主人公が後輩の作品を手放しで絶賛するエピソードで直接つまらないと言われながらも、それでも今の人気に安住していつもどおりの作風を続けるのではなく、面白いといわれるために格闘する決心をするという形になっている。もちろん世の中の作家は、読者(視聴者)に迎合してカネを稼げればそれでオッケーというのも多いだろうが、この作品ではそうではなく、面白さを追及してもがく作家に焦点を当てゝいるように思える。なにものにも紐づけられない、自分が好きなことをやりたいように追及していくその純粋な気持ちを勢いよく描いているところに魅力があるのではないだろうかとは思った。あと、オリジナリティを超えたところにある面白さとは何かとかそんなのかねぇ。
 っつーわけで、特に最初の1話(というか、0話)を視聴して、よくある萌え豚専用のしょうもない作品かと思い、ほとんど期待もせず見続けてきたが、ちょっと意外なことにかなり楽しめてしまった。もちろん人は選ぶし、数ある典型的なラノベ原作アニメの範疇を超えないんだけど、突き抜けたところはあるなぁといったところ。