ソードアート・オンライン Ⅱ 第24話

長良浴衣グラ

 いやぁ、終わったねぇ。結構見ごたえのあるエピソードだった。
 おそらく原作者もかなり気を遣って書いたエピソードだったんじゃないかというのが窺える。ユウキは一体どうなるのかというのにも油断がならなくて、ヘンな話、メディキュボイドと称されるインターフェイスが実現可能なんだったら、病気だって治るという設定だって可能だろうし、かといって本当にそうするつもりなんだったらシウネのような病気の設定にしてるだろうというのはわかる。癌も自分が子供の頃は不治の病扱いだったのが、今となっては全身転移の末期状態でなければかなり完治の割合が高いものになっているし、そのへんの技術の進歩は驚くものがあるから、そういう設定にしちゃえばよいだけのことなんだけど、そのへんはちゃんと線引きがある模様。まぁ原作者のことからすると、かなり人の生き死には容赦のない人であるので、その思い切りには昨今の優しい世界で人死にの出ない作家が圧倒的多数の状況からすると稀有な人ではある。
 お別れの場面で、これも昨今の流行であるところの「決して君を忘れない」というのがいつ出るのか、ヒヤヒヤしながらというか、いつ出るか心配しながら視聴してた。自分はそれが凄い欺瞞のように感じていて、しかし去る人をすぐ忘れ去るというのも恩知らずというかいかにも目の前の利益にだけしか見ませんよという下世話さが感じられるし、忘れずにいつまでもというのもうじうじゝて後ろ向き過ぎるなぁという感覚。忘れるなという人も執着が過ぎるし、忘れないという人も口先だけなんじゃねぇのと訝ってしまう。生きる死ぬの深刻さはないにしても、フクイチの被災者が忘れないで欲しいと言ってるのも、よくよく考えてみればおかしくて、別に被災者にとってみれば、起こってしまった事故は確かに心理的な負担が大きいが、少なくとも被災前の状態にスグ復帰して、被災地以外の人たちと同じ生活を送れているのであれば、わざわざ私達を忘れてくれるなとは言わないはず。アレは、そう言い続けていないと、すぐに政府は復興を後回しにするなり手抜きする、かといって原子力産業でたっぷり税金を食い物にして甘い汁を吸い続けてきた電力各社や産業界、そして原子力行政で核兵器開発能力を維持し続けていたい自民盗関係者が自分達の責任をおいそれと認めたいわけでもなく、反発なんかしようものならカネが下りてこなくなるために、それ以外の人たちの感情に訴えかけて、政府に圧力をかけているだけのことであって、もうなんていうのか、別に何の関係もない人を巻き込みたいというのが本意ではないのだけども、そうでもしないと政府に見捨てられるという切実さが感じられてなんともといったところ。まぁ現実問題、2020トウキョウオリンピック利権のために福島の復興が著しく遅れている結果になったわけで、まぁやはりいつもの自民盗政治の風景ではある。まぁともかく、忘れる忘れない問題は、基本権力(カネ)を持っている慈悲のない人間*1とそうでない人間の間での見捨てる見捨てないの確執問題であって、少なくとも社会は人と人とが合理的な支えあいという考えから生まれるものではない。原作者もおそらく忘れる忘れないの応答は決してこのエピソードでは使わないと判断していたものと思われる。で、それは自分と同じ考えだからというわけでもないが、少なくとも触れなかったのは正しいという気がする。
 あと、ユウキに生きる意味だとか、何の生産性もない自分がという台詞を言わせたのも際どいというか、勇気のある判断だなぁと感じた。批判を恐れるのならアレは言わさないハズ。
 あとは医療行為が非常にコストがゝゝるというのに間接的に触れているのも結構考えさせられるものがある。それこそ医療の発達していない国や地域では、家庭が貧しければ特にユウキのように医療を受けることもなく、不可抗力的に見捨てられて生まれたそばから死ぬのがあたりまえの状況だってあるわけで、結城家は別格にしても桐ヶ谷家だってやれそういう状況に立ち会えるのも、家庭にそれなりの収入があるからこそであり、視聴者としても日本の経済状況こそがそれを助けられるべき存在として認識させているわけであり、実際のところこのエピソードに涙することが出来るというのは、そういう状況こそが実は贅沢なのであるという視点もいちおう失っていないように見受けられる。
 このエピソードではユウキが15歳のいたいけな少女であったが、別にこの問題は孤独死寸前の老人にも当てはまる問題であるとか、まぁ問題の立て方としてはかなり考えつくされたものなんだろうなと推察される。日本だけではないと思うが、地域のコミュニティが崩壊しているか、機能していても負担ばかり大きくて息苦しかったりするところもあるだろうが、利害関係を飛び越えてネットを通じて新しいコミュニティ(とはいえ、それはかなり気まぐれ要素の強い弱い紐帯ではあるのだけども)の可能性も考えられて、一つの方向性にはなっている。
 というわけで、なんというか、前回マザーズロザリオの意味とはとか考えてたけど、そういうのはふっとんでしまった。わかりやすさを意識しながらも三文芝居になることは極力避けているし、いろんな箇所に考えるべきポイントを仕込んでいるというか。
 結局この第2期ではこの最后のユウキ編とでもいうべきエピソードに持っていかれたといったところ。いちおうGGOで第2期は生死がテーマですよという旗を立てゝおき、エクスキャリバーのエピソードで、MMORPGのリプレイだよと油断させておいて、その雰囲気を保ったまゝ、スリーピングナイツの謎に迫って急展開という構想自体はそう間違ってるわけでもないんだよなと再考した次第。が、いかんせんGGOは自分には合わなかったな。そのおかげで第2期の自分的な全体の評価は低くなってしまうし、そのおかげでユウキ編が自分的には飛び抜けて好意的な評価をしてしまうという結果になったという。
 いかんせんもったいないのは、やはりVRを舞台としているおかげで、ネットゲームに批判的な人たちに対してはおそらく見向きもされないんじゃないかなというところ。人類の歴史からいって、新技術は登場時にはいつも批判に晒されてきたわけであり、しかしそれがいったん便利であると周知されると途端に普及率が急激に高くなってそれ無しの生活が考えられなくなってしまう域まで達してしまうものも多い。VRやネットゲームについてその可能性や功罪を述べてはいるし、その点でやはり問題設定の仕方はうまいなと言わざるを得ない。こういう問題を取り扱ったのはこの作品が嚆矢というわけでもないんだろうけど、ラノベやネットゲームに興味のある層に対しての問題の投げかけはそれなりにうまいなという気がした。おもろ+。

*1:血液製剤という題材を取り上げることからして含むところがあるだろう。血液製剤の感染問題では、当時の正木馨という厚生省のその部門のトップが責任を回避して逃げ切ったのは周知の問題。なんとアベシンゾーの親族。もちろん下っ端は裁判かなんかで有責とされている。