まおゆう魔王勇者 第12話

 魔王暗殺で幕引きか?と頭をよぎったんだけど。
 種痘に鉄砲の大量生産、自由主義ですか。種痘はモロ近代だろうし、鉄砲も単発なら中世だが、日本という特異例を除いて大量生産ともなれば近代に近くなる。自由主義宗教改革から個人の富の蓄積を善としたプロテスタントを経由して近代に開花するものだと考えると、今回の描写から中世から近代への移行期をほのめかしてEndってところだろうか。
 そう考えるとなんだろうな?、原作は未読なのでともかく、このアニメ版のテーマはやはり単純な中世紹介とはいえないというか、ほかに言いたいことがあるんだろうなと考えざるを得ない。勢力を整理すると、冬寂王を中心とする人間側良識派、教会を中心とする既得権益層、魔族側を2つに分けることもできるんだけど、いちおう人間以外の文化を持つ周辺層、あと商人っていったところか。やはり気になるのは既得権益層の描き方。もちろん物語の構図をわかりやすくするために悪役を悪役として描くことは正しいんだけど、普通多文化共存を描く場合悪役を露骨に描くことはしないような気がする。人間側の負の部分を描くにしろ、それは人間である限り不可分のものとして描くだろうと思うんだが、まぁこれをどう解釈すべきかね。
 で、紅の学士がもたらした技術が時代を問わず、ある困難を解消するためのガジェットだとして考えると、まぁドラえもんの道具として見た方がよさそうだわな。困難は技術革新で解消可能→解消不可能なのは人間(もしくは魔族であろうと)の負の感情である→大事なのは技術でなく、精神のあり方…であって、本作はその精神のあり方を中心に描いていると言えよう。だから、自分が始終気になっていた、技術は物語を修飾するものでしかなく、別にSFで描かれる超技術となんら変わりがない。単に困難を乗り越えるひとつの解決法としてみるべきなんだろう。
 で、その精神性を考えてみると、古代→中世→近代→現代と辿ってきたはずのこの世界は、精神的には実は中世レヴェルでしかないという把握をしているように思える。で、日本を振り返ってみてもなるほど今の政治体制、それを導いている政治思想は中世レヴェルにとゞまっており、いくら学問として近代・現代思想というものが研究されてはいても、じゃぁ近現代的思考をしている日本人、とりわけ特権階級がそれをしているか?といわれゝば、残念ながらしていないと言わざるを得ない。で、大多数の日本人が描かれている中世の農奴のようにそれにたゞ従うだけ、もしくは従わざるを得ないという状況であると言われゝば、たしかにそれもそうだ。で、合衆国は近現代思想で動いているか?といわれると、これまた合衆国の言うことを聞かない国は武力で殴っちゃえの、古代未満の思想でしかない。もちろん日本だろうと合衆国、世界だろうと、個人レヴェルだと全部が全部そうであるといわけではないが、総体としてみると、そういう原理で動いていると見るしかない。で、この作品の主張として、「みんな、中世的後ろ向きな考え方から早く脱却しようよ」みたいな感じなのかな?。
 本作がキャラに名前がなく、言わば職業名であらわされているのはタロットを思い起こさせる。タロットが象徴しているものがそれぞれの役割を表すというか。いちおうキャラが被るってことがなかったような気がするし。この作品が誰に読まれるか?を考えると、これはこれでアリかなと思わなくもない。というか自分は気にならなかった。
 中世風味であるということから、なんか騙されたというか、自分が勝手に誤読していたというか、いやどうなんかなと思わなくもないが、上記の通りであったのならそこそこ楽しめる作品だったとは思う。超技術としての中世の発明発見が露出されるというのをどう評価するというところもあろうが、そこは「その技術が人間の生活を変えた革命的なものであることは知ってるだろ?」という扱いで、紹介というよりは技術の説得性のために使われているといったほうがよいか。で、確かにこれを視聴し終わったあと、別に勇者と魔王(女騎士)とのいちゃいちゃを除いたとしても、この世界がこの後どうなっていくんだろう?とばかりに続きはかなり気になった。っつーかOPの歌詞の内容で弁明するのやめてください。ちょっと評価は甘くなるが、自分の読みの浅さを反省する意味も込めておもろ+ということで。なんかおそらく続編はないような気がするねぇ。