まなびストレート 総括?。

 あとでと言っていたまなびストレート全篇を通してみて感じたことなのだが、やっぱりというか新番でだいぶ興味が薄れてしまってます。2007年1月開始アニメ 人気調査@はてな - エネルギー吸収と発散さんトコで見ると、人気はともかく話題性は大いにあったようです。
 一般的な見方としての結論は、中高大学生向けへの応援歌と、たぶん3〜40代への懐古みたいな感じなんでしょう。最終回直後あたりはもっと深いものがあるだろうと思っていたのですが、時間がたって思い起こしてみると割とスタンダードな作りであったことに気づかされました。
 時代性みたいなもんから言うと、昔のアニメだってやれうる星やつらとかなんかでも文化祭などの描写はあったのであり、でもそれはあくまで背景であって、自分たちで企画・運営をするということをクローズアップしていたわけではなかったような気がします。スポ根モノは今も昔もコーチや監督が選手たちを導くなんてモノは少なくて、選手が自主的にチームを作り上げていくモノが多いわけなんですが、文化祭などのようなものは生徒が運営するのはあたりまえであって、ハウツーモノなんて昔はなかったような気がします。
 なんといいますか、戦後教育の中で'80年代まで上がっていた基礎学力が、新しい学力感のもと、特に中曽根内閣の折より教育のあり方が変質してきたらしいということが自分にはわかってきた。興味関心重視の教育というのが'90年代から取り入れられ、それでも指示待ち人間が増えてきたという反省のもとにゆとり教育が本格的に導入されたのがほぼ10年程前。
 指示待ち人間が増えた反省にゆとり教育がもたらしたものというのは、結局指示待ち人間が増えただけという、それも基礎学力の低下というおまけ付きということなのだ。で、騙されてはいけないのが、実はゆとり教育自体がそもそも指示待ち人間を増やす、それも自分でモノを考えないようにするという目的の元導入されたというのが本性らしい。「能力のないものはせめて実直な精神」などの発言がまさにそうであるように、また実際に学力が低下しているというのもそれを裏付けている。
 それでも学力が向上しつつあるらしいが、それも生徒やその保護者がゆとり教育に対して防御措置をとったり、教育現場では教員たちが役にも立たない「総合的な学習の時間」を読み書きや計算などの基礎学力向上に転用した結果であるらしいというのが笑える。ただ、やるべき仕事がはっきりしていた昔なら、学習すべき事柄を詰め込む教育が日本を発展・維持するためにも有効な手段であったが、同じ詰め込み教育というのが以後も通用するのかといえばそれは難しい。
 で、たぶんそれこそ昭和の始め頃にはほどんど無かった選択問題が現在にはたくさんあるということから、価値観の大幅な改変が行われている現代のいろいろな現場で、いろいろ起こっている問題の解決方法が選択肢で与えられるはずも無く、選択問題ばかりに慣れた子供を含む社会人が右往左往している状況なんだと思う。
 ではなんで選択問題による選別が学校を問わず社会で一般化するようになったのか?というのを考えると、どうもそれは団塊の問題になってくるのではないかとも思えてくる。ただし団塊自身に問題があるというわけではなく、単純に日本の復興のためにたくさんの人材を生産に振り分ける必要があり、選別方法を簡略化しなくちゃならないという問題が発端なのではないかと思うのだ。
 戦後間もない頃には40%ほどだった高校進学率が、団塊が高校に進学しだす昭和40年よりちょっと前からいきなり60〜70%に増加します。戦争に対応する必要が無くなって勉強にリソースを割り振る余裕ができたという見方も出来ますが、別に先の大戦以前に高校進学率が40%より高かったわけではないのですから、当然学力が低い生徒が大量に進学したと見るべきでしょう。敷居も低くするし、そうなれば選別方法も簡略化しなくちゃならず、いちいち生徒にいちいちものの考え方を仕込んだりする余裕なんてなくなってくるわけです。覚えるべき知識を考えるべき前提条件や前後の整合性なんて切り離してしまって画一的に覚えこませ、そういう知識の「量」の多寡で選別していくようになる。
 昭和50年には高校進学率が90%を超えてきますから、もうこれは学力が足りない生徒までどんどん入れちゃったということなんでしょう。とにかく知識を詰め込めば、その運用まで考えが及ばなくてもテストはパスしますし、なにより上級学校に進学すればいい就職条件にありつける時代だったからモチベーションも高い。当然高校に入って勉強についていけなくなるが進路変更したくない生徒であふれ返りますから、歪みが出来るのは当然で校内暴力が顕在化するのが'70年代といいますから一致します。
 それでも虚業に邁進して経済がつぶれるバブル崩壊までは働けばいい職にありつけましたから、学習へのモチベーションは'90年代のごく初期までは維持します。東京なんかでも公立から東大に進学するという状況はここまではあったらしい。もちろん覚えるので必死な生徒はいたであろうが、子供に節操無く金が与えられる時代でもなく、生徒は現在のように消費経済に浸ることができず、あくまで学校の価値観の中でリソースを配分するしかなかったはずである。その生徒たちの行動選択の1つがまなびストレートで描写される「自治」だったりする。選択とはいっても自分の行動を自分で作り出さなきゃならなかったから、たぶん「自治」に関わった生徒はそれこそ自ら学ぶ能力に長けた人材が多かっただろう。
 そしてバブルが崩壊し、日本が生み出すパイは縮小するだけになったから、猛烈な争奪戦がおこるのが'90年代前半から現在までの流れなんだろう。政治家を含む日本の権力層はバブルでまともな経営感覚を失ったから、パイを大きくするために国をどういう方向に持っていくべきかの仕事をしなかった…というよりは能力として出来なかったのだと思う。
 そうなると権力層はいかに生産するかという部分での能力が無いわけだから、現在の地位を利用していかに今ある共有財産を私有するかの方向に血道を上げるしかなく、その一番の効果的な方法がオイシイ立場・情報を独り占めして愚民化政策を進めるということだったのだろう。まぁこの考えの流れが正しいかどうかは、格差固定社会という結果が示していると思うのだが。
 権力側としては国民の側に「長期的な視点にたってものを考え」て貰っては困るわけだ。でないと国民の目の前においしいエサを吊るして目くらましをして、自分たちは一番おいしいものをとってしまうということができなくなるからだ。国民にはあくまで権力者にとって都合の良い選択肢だけを示して、あくまで自由に選ばせているという幻想を抱かせておき、国民は全能感にひたってくれさえいればいいわけだ。目の前にあるいくつかの選択肢にだけ集中してくれれば好都合で、もっといい選択肢があるということに気付いてもらっては権力者にとって誠に都合が悪いわけだ。
 究極の選択なんてものがあった。1989年に本が出版されているから、あぁやっぱりなというか、モロ中曽根内閣あたりのころだ。うんこ味のカレーとカレー味のうんこのどちらを選ぶ?という奴だ。権力者はうまいカレーや普通のカレーを喰っていて、大多数の国民にはまるで世の中にはうんこ味のカレーかカレー味のうんこしかないと思い込まされていて、その2つのどれかしか選べないと思わされている。
 万が一国民が賢くなって普通のカレーやうまいカレーがあることに気付いてもらっては権力者は困るのだ。さらに、国民に普通のカレーやうまいカレーが食べられることを隠しているなんてことに気付いてもらってはもっと困るわけだ。権力者にとって国民はバカであればあるほど良い。
 そのために教育課程も壊してきたし、教員に処理できないほどの仕事を押し付けて国民に真実を知らせるような余裕を与えたりしてこなかったし、今教員を弾圧もしてきている。国民投票法案でも公務員や教員の運動の関与を禁止してきているが、それもそのはず、彼らが国民に真実を教えたりしては困るわけだ。権力者だけがオイシイ思いをしていて、大多数の国民はそのしぼりかすぐらいしか与えられてないなんて事実が判明してしまったら困るのだ。
 まぁ結局国民に自分でモノを考える力がついて、権力者がズルをやっていることに気付く羽目になるのはマズいわけだ。そしてずっと政治家は国民が自分でモノを考えることが無いように細心の注意を払ってきた。
 だが、もうそれもつづかなくなってきているのだろう。それは国民が賢くなってきたからでは決して無くて、なにより権力者自身が自分の頭で考えることが出来ないからである。政治家はアメリカの年次要望書とやらに従って行動するだけであるし、財界もアメリカ経済学を鵜呑みにするだけ。いまだに競争原理だとか成果主義とか外国人の導入とか言ってる。'90年代に試され、すべて失敗しているもの*1ばかり。
 日本でいうと、確かにモノが溢れ、初期条件がよっぽど悪くない限り射幸心を避けて堅実に働いたら飢え死ぬことはないと思う。食うだけで精一杯だった時代の常識は今は通用しない。すべて昔と同じやり方でうまくいくはずも無い。基本はおさえつつその場にあったアレンジなりカスタマイズをしないと効果は上がらないだろう。そのためには自分で観察・判断すること…つまり自分で考えることが重要なのだ。
 そしてグローバル化した現在、いつ資源の奪い合いが起こったり、日本円が価値を失うのかわからないのである。今はまだ金にモノを言わせて海外から輸入しているが、その状況だっていつまで続くのかはわからないのだ。変化が起こったらその都度対応せねばならないだろう。そのためにも自分で考え・行動しなくちゃなんないだろう。
 まぁまなびストレートで言いたかったことってのを敷衍すると、そういうことかと。

*1:かといって旧来の年功序列がいいとも言い切れないのだが。だが、ビジネス界の水面下では労働力の流動化に逆行して新卒採用を重視してきている。即戦力の中途採用ではなく、結局新卒を採用して会社で育て上げる、つまり採用したら長年その会社で勤めてもらうということなんだろう。