被雇用者の問題

 現在の就職難ということで就職適齢期にある学生・生徒や実際に働いている若手について述べてみます。首都圏に行きますと明らかにおつむの足りなさそうな生徒や学生をみかけるのですが、不思議なことに身の回りにはそうでない人間も数多く見受けられるのです。自分の職場では実は自分と同世代の人間より使える人材が正式採用されずにこき使われていたり、近くのスーパーではオバちゃんよりは若手のほうがはるかに気を遣ってくれるように見受けられるのです。但し、自分の友人の周りではそんなことはなく年々職場に配属される若手の質の低下には頭を悩ませているそうです。
 話はそれるのですが、そもそも国家として何を重視すべきかという点について考えてみることにします。まだ日本が独立国家であったころ、即ち太平洋戦争が終わるまでにどの省庁が大切にされていたかについて興味深い出来事があります。東京が空襲に次ぐ空襲のあと、どの省の建物が残っていたのかというと実は4つあったそうです。偶然という要素も十分あるのですが、そもそも空襲を受けても被害が大きくならないような対処を既に施してあったそうです。なぜならその省庁は国家の主幹だからということなんでしょう。即ち、大蔵省、文部省、内務省、警視庁の4つだったそうです。なるほどうなづける話で、大蔵省はそもそも金そのものを扱う基礎であるということ。文部省はその金を増やす倍数装置。内務省・警視庁はその金をかすめとられないための警備機関(その他)と考えるとわかりやすいです。昭和初期は日本が軍国主義で浮かれてしまって正常に物を考えられなくなった時期ではありましたが、それでも陸軍省海軍省が重要視されていたわけではなく、あくまで国民経済を如何にまわしていくかに視点はあったわけです。
 戦後になり、日本が独立国としての主権を奪われてしまうと考えがおかしくなってきます。主権を自分で考えなくて良いということになってしまうと、効率重視ということになってしまいました。どんな国体であろうと金は重要なので大蔵省の重要性はゆるがないとしても、教育と警察は昔ほど重要視されなくなりました。軍国教育の弊害は言うに及びませんし、昔が良かったと賛美するわけでは有りませんが、戦前までの教育のすべて悪かったわけではありません。ただ戦後になり、良かった部分が少しずつ骨抜きにされた部分はあると思います。
 さて本筋に戻します。私が受けていた学校教育の指針からして、詰め込み教育にたいする非難が考慮され、学習内容が減らされていたそうです。それが年を追ってひどくなりました。自分が就職するおりにもマスコミを通じて生徒・学生に楽をさせる方策がアナウンスされていたのを思い出します。すでに東南アジア・中国の台頭が本格化していたのに(大学の研究室にも留学生がきていました)、あえて学力を低下させるような言説にイライラしておりました。
 あとはゆとり教育の弊害として私が言わなくても見事に結果としてあらわれてくれているわけです。ただし、私の見る限り全員が屑ではないらしいということです。そうはいっても全体でみると使えないという判断がなされてしまうのでしょう。上と下の広がりが大きくなり、下に属する部分が大きいために使えないと判断されるのです。周囲を見渡してみると使える若者もいる、しかしそうでない若者が多いという現象に対して私が用意した答えはこのようなものです。雇用者側としては使えない人間ははなっから採用しなくていいし、使える人間を安く雇えるのでウホウホでしょうね。
 使えない若者たちには申し訳ないのですが、実はその原因は楽をしようとした側にあります。興味関心を重視した教育とかいっていますが、実際の職場では若者たちが仕事をしやすいように他人が興味関心をかきたててくれるわけではありません。教員たちが若者に学習の意欲が湧くよう努力すればするほど、人間としてダメになってしまいます。それが現に在学中も学力低下としてあらわれているのでかなり救われません。周囲のダメさ加減を糧にし、自分に必要な修練を課していた若者がようやく職にありついている状態だと思います。
 ただ、若者たちだけに原因があるわけではありません。ルーズソックス・たまごっちから援助交際にいたるまでの流れ、最近では携帯電話の圧倒的な普及に見られるように、本来自己修練には必要のないものが市場に氾濫し、いつでも手に取れる状態になっていることにも問題はあります。食えなくなりそうな企業が若者を食い物にするこれらの商品・サービスですが、残念なことに若者にこれらを抑制させる手段が一つもありません。若者たちもその親も抑制しようとしません。私が生徒だったころはこれらが学習にとって良くないことなどあたりまえであったし、実際にそれを持ったりすることもなかったのですが、なんでこんなことになったんでしょう。選択の余地がなかったという点では私(達の世代)は恵まれていたんでしょうが、少なくとも無理やり有害なものを持たされるということはないんだから(持たないという選択の自由が与えられている)、やっぱり抑制できない側に責任があると思ってしまいます。
 学校教育の点から切り取ってみましたが、そうしなくても問題は指摘できます。外国人労働者が日本人の職を奪っていると昨日書きましたが、じゃぁ彼らがやっている仕事を若者がやるのかというとそうではないらしい。もしかすると、若者だって3K仕事は外国人労働者がやるべきだと考えているかもしれないのです。かといって単純作業以外の頭脳労働が出来るスキルがあるのかといえばそうでない場合もありで。私が高校生のころはなかったように思いましたが、卒業後何年かして、若者の離職率があがったという記事を見たことがあります。すなわち就職してもすぐ辞めると。
 かなりうだうだと書きましたが、結論としては単純です。昔と比べて耐性のない若者が多くなっているということ。周囲の影響もあるが、結局楽を選んだ側にも責任は大いにあるということ。雇用者側にも大いに問題があって、働きたくても働けない気の毒な若者もいてそれは大いに同情もするのですが、それはバブル以降の無責任な若者の行動の蓄積であるかもしれないということです。戦後教育の失敗が明らかになった今、方針の転換が求められるのは論を待たないでしょうが、本質はそんなところにあるのではなく、あくまで若者自身にあるとは思います。だって、修練を重ねてそれなりの進路を確保しているヤツだって居るんだから。
 これはかなりプラックな見方ですが、日本人の若者の就職状況は改善する可能性が考えられます。ゆとり教育が実は学力低下を目的としたものであったということが明らかになりつつあります。私の住んでいるところは田舎(都市部は低年齢化が進んでいると思われますが)なのですが、中学生はほぼまともなのに高校生になるととたんにガラが悪くなったりしています。高校に行ったものの、一夜漬け的な学習で試験を乗り切り、遊ぶことにかまけてしまっているのでは?と思ったりしています。結局高校ではほんの少しの知識と遊びを覚えるにとどまってしまい、その少しの知識だって何ヶ月かすると忘れてしまうというもの。これでは高校に屑になりにいっているようなもんで、金をかけるだけ無駄なわけです。それならそいつらに金をかけて教育するより、今外国人労働者が行っている3Kの労働に従事させたほうが社会的にはるかにましなわけであって。学習内容を削減したところで下位層が必死になって勉強したか?しないんだったら金かけてまで面倒見ることもないやん。無駄金を掛けずにさっさと働けや。今はそう主張するだけに足る状態になっちゃってしまっているわけです。こんな方法で就職状況の改善とは情けないですが、他に方法もないわな。まじめな高校生もいるので気の毒なんですけど、いまや社会のお荷物は高校生(その予備軍である子供たち)と思われていることに本人たちは気が付いているんだろうか。