雇用者の問題 その2

 いろいろ考えなければならない前提条件はあるのですが、人間が生きていくために必要なもの(衣食住)の生産や物流、その他周辺に必要な労働について考えてみてください。

  • 機械化などによりそもそも人手が要らなくなった。
  • 一人あたりがこなすことが出来る仕事量が増えた。
  • 労働力を日本人に頼らなくなった。

 とあげましたが、上2つは関連しあってます。実際にこれらの現象があることは間違いないと思います。当然技術が進歩したとしても人手がまったく要らなくなるわけでもなく、現在では第3次産業への転換もかなり進んでおり、少し前までは問題にならなかったのでしょう。ただ第3次産業への転換その他については問題があり、本当に人間が必要なモノ・サービスであるのかどうかという問題もあります。本当に必要ではないのに、というよりむしろ有害ですらあるのに金を自分のところに引き寄せるために流通しているものが世の中にはたくさん溢れています。もちろん一面的な見方であることには違いないわけですが、有益な部分が少しあるからといってほとんど有害なものが氾濫している現象にもうそろそろ気付いてもよさそうな気がします。話はそれましたが、現状では本当に必要な労働力そのものについては昔より少なくなっていると見てよいと思います。実は化石燃料に負うところが大きいのではありますが。
 欧州の産業革命時にラッダイト運動が起きますが、日本人は従順なのか今のところ抵抗の兆しが見えません。欧州ではどのように解決したのか今ひとつ結論の出にくいところではあると思いますが、人が要らなくなったからその分切り捨ててしまおうという考えよりは、人が要らなくなったら仕事を作ってしまえという考え方のような気がします。欧州の町並みが歴史的であるのもそのひとつかと。効率的に新しい工法で安っぽい建築物を使い捨てにするよりは、手間がかかる建築物を人の手で修復するという手段にしているために、その業界が一定の労働者を食わせていきながら技術もともに存続していくという構造なんじゃないでしょうか。スペインの聖家族教会の建設なんてその最たるもののような気がします。いろんなメディアで欧州がいかに不便なのか目にすることも多いのですが、やつらは産業革命を我々より早く体験して、それを克服する手段としてなるべく多くの人が食っていけるようシステムが出来つつあるためにそう見えるのではないでしょうか。ただ物流が世界的になっており、たぶん欧州もその流れに逆らえません。日本が自国民や近隣アジアの国民を食い物にしながら米国とともに経済侵略をしている以上、もしかすると欧州もそれなりの変化を見せるのかもしれません。(誤解している人が居ると思いますが、経済侵略は米国より日本のほうがパフォーマンスとしてひどいです。少なくとも海外では日本をそのように見ている)また話がそれましたが、必要な労働力は少なくなっているが雇用制限は実はしなくてもうまくやっていける方法はあるということです。でも雇用確保はしてない。
 労働力を日本人に頼らなくなったことも現実問題としてあげられます。これは新卒の就職難が問題になる以前からずっと行われていたことです。かなり前から高い日本の人件費を避けて工場を低賃金の国に建てたとか、農村でも研修制度といって自分の施設でアジアの低廉な労働力をこき使ってきました。いまや首都圏では日常的な風景になっているように3K労働のほとんどを外国人労働者に頼るようになりました。すなわち、そもそも必要とされる労働力が少なくなっているうえに、その労働力を外国人労働者が担っているために、日本人の就職状況が厳しくなっているわけです。欧州では国策として外国人労働者を受け入れて社会問題化していますが、日本の場合、民間主導で外国人労働者を受け入れて社会問題化してしまっているわけです。ただ、民間といって企業体を悪者にしても仕方がありません。最近でこそ外国人労働者の犯罪問題がマスコミによって煽動的に取り上げられてきたのでやっと否定的な意見が見受けられるようになりましたが、ちょっと前までは国民の意見として外国人労働者の受け入れが積極的に行われていましたので。私の周囲の人に聞いてみても、肯定的な意見か外国人労働者を受け入れざるを得ないんじゃないかといった追認的な意見がほとんどで、少なくとも受け入れは慎重に行うべきとの意見は一つも聞いたことがありませんでした。つまり政府はむしろこの様になることを想定して水際作戦を行い、なるべく外国人労働者を日本国内に入れないようにしていたのに、国民の大部分が目先のことしか考えず、事態を悪化させるようなことに対して直接的間接的支持をしていたということです。
 就職難を招いたのは、人を切り捨てたほうが都合がいい、日本人を使うよりは外国人労働者を使ったほうが都合がいい側によって導かれてきたことなのです。そうしなくてもうまくまわしていくことができるのに、それを選択しなかった。結局そういう企業や切捨て万歳的な社会を支持しているのは誰かということです。そういう企業のモノやサービスを受けて喜んでいる我々だってことで。
 民主主義の理想的なあり方とはにもつながってくることではあるのですが、不満をもっていたとしても結局自分が負担をしなくてもいいのならあっさりと他に押し付けてしまう精神構造にあります。日本人は昔はそうではなかったのに最近はそうではないのはなぜか。社長の話にしたって、昔の社長は人を使い捨てにするのではなく雇用を確保してその上福利厚生まで考えていた。今は違う。それはなぜか。ということです。雇用者の問題というよりは世代論や男女のあり方の変化など社会的な変化が大きな原因なのですが、とりあえずここでは雇用者側の問題とか言いながら、ギスギスした社会をもたらしているのは、実はそういう雇用者を支持している我々自身であったというとんちんかんな結論でまとめましたので後々の考察事項としたいと思います。
 長い。長いよ。