貧乏神が! 第8話

 あ゛〜、もうダメ。
 初めっからこちらは涙目で視聴してた。そりゃ嵐丸にしてみりゃ自分のために体を張ってくれた市子には尽くすワナ。で、そういう嵐丸みたいな人間が現実社会に多いのか?と言われゝば、そうでないのは今回の胡桃や嵐丸に助けられた三人組(とはいえ消防車を呼んでいたが)の描写の通り。視聴者が見れば嵐丸は直情型で騙すことは無いというのがわかるようになっているのだが、市子の目には過去の経験からそういうのを見通すことができなくなっているというのもミソ。夕日のもとで叫びあうのは、嵐丸に自分の思いを打ち消して欲しいがためであって、@花澤の声色の変化がなくとも市子の心の変化を表している。まぁこう野暮に書き立てなくても、こういうエピソードは昔からあったものではあるんだが、いざこうやって目の当たりにしても古臭さを感じなかった。
 しかしなんだねぇ、市子が幸福エナジーを与えられている理由ってのが、どうやら過去の経験から彼女自身は心根の優しい少女であって、それが他者による攻撃で傷を負ったからその償いとして…って構造が見えてくるようだ。いや、あの幼少の時点でも幸福エナジーがあってこそのモテぶりではあるんだろうが、今の桁違いな幸福エナジーの威力からすると、男の子に嫌われたのを回復することができていなかったので、当時の彼女の人間力に見合った幸福エナジーという構造になっていて感心。市子に法外な幸福エナジーを与えた主体が誰であろうと、それは貸し借りの解消でしかなく、リハビリに必要だからこそ与えられているということになる。で、紅葉は幸福エナジーの使い方をレクチャーしに来たインストラクター(今ドキだとメンターあたりか)という役柄。恐らく彼女自身の心根が発する幸福エナジーのみで彼女が幸せに暮らせるという分相応な状態になるのがこの物語の決着点。つまり人間回復の物語ということになる。
 しかし、恐ろしいのは市子は元々が優しい人間だからこそ癒されて回復するって構造になっていること。ある意味性善説に立ったものなのだ。もちろんこういうのが成り立つのは人間(視聴者)全員が元々は善人であるというのが前提なんだが、世の中には性善説を信じることが出来ないようなのもいて(そういう例が実は胡桃だったりする。胡桃には市子を陥れる正当な理由が無い)、そういうのは更生不可能ってのを必然的に示す事になる。善悪で考えるとわかりやすいのだが、実はそう簡単なことではなく、対立する二者は価値観の違いでしかなく、善悪・正邪関係で考えることが出来ない場合も多い。そうなると、この回復の物語ってのも基本はそういう価値観でまとまれる集団内でしか通用しないということになってしまい、なんとも複雑な気分にさせられる。だからこの話を見て涙を流す自分はあくまでなんだかんだいって昭和あたりの日本全体にかつて多数共有されていた古い価値観をもっているからこそ感動できるのであって、下手をするとバブル以降の多様な価値観を持った層には訴求力が無い可能性だって考えられる。まぁあんまり考えたくないことではあるけどね。そしてアニメってのは往々にして描写される価値観を植えつける役割も果たしているのであって、このような(もしかして失われているかもしれない)価値観を再生させるという効果が期待されているのかも…。まぁ原作者にしろアニメスタッフにしろ、売れることが第一だろうけど、そういうあたりを考えて…というより祈りだとか願いに近い…作品を作っているよね。