たまゆら曜日だ。

 昨日人類は衰退しましたを読了して、主人公である「わたし」が学校を卒業して帰郷するという場面があるのだが、その中で学校は無くなって、それぞれの家庭で教育が行われるようになるのだろうという台詞があった。そういやラスエグ銀ファムもそういう設定なんだろうなとずっと思っていて、書く機会を窺ってはいたのだ。学校なんてものが出来るのは基本近代以降のことであり、決して自然発生的に出てきたものではない。微妙なのが日本であって、江戸期に寺子屋ができて、まったく連続しているともいえないんだけど、明治以降の学校につながっていく部分がなきにしもあらずだ。が、柳田國男の三部作を読んでしまった後では、やはり各々の村では家庭で必要なことを教えるという形になっていたんだろうなと思ってしまう。離島とか人里離れた村では学校の先生なんて余所者だったゞろうし、子供たちは家庭での仕事の息抜きというか片手間に学校に行っていたところもあるだろう。あと江戸時代は近世という言い方をするので、産業が家内制手工業や問屋制手工業と、明治以降の殖産興業までに段階的に発達していく過程で寺子屋も増加していくわけで、やはり近代というのを工業化という視点で見たときに、やはり相関々係はありそうではある。
 で、ジゼルやファムだが、字は読めるし、ジゼルは航法関係などでは圧倒的な知識を誇っていた。ファムあたりは操縦の名手といったところだろうが、小さい頃から乗ってれば本人のやる気や素質によってはあのくらいできてもそう不思議は無い。空賊を生業としているだけに、それに関する知識や技術は熟達しているところなんぞ、やはり家族およびコミュニティで教育がなされていて、学校という組織はカルタッファルにはないんだろうなと思わざるを得ない。で、学校が無いから暮らしていけないか?、といえばそんなことはない。その土地で暮らしていくために必要な知識や技術をその地に住んでいるものが取捨選択して、自分たちで教育を行うといったことはむしろかなり自然である。
 学校教育なんて近代化が産み落としたものなんで、工業化、軍事化、中央集権化のために必要なものがてんこ盛りになっているのはあたりまえだ。そしてそれは必然的に地域から人を引き剥がすことになるのはわかっていたゞけると思う。総力戦を何度か体験して、人類は戦争で国家が疲弊することを体験したから学校という装置を平和転用したということなんだろうし、工業化というのはこれまた社会の高度分業化をもたらすわけなんで、さらなる個人分断化を招く。それに対応しようとすれば、教育というのは近代社会を維持しようとすればむしろ複雑化した社会を理解するためにさらに必要とされるハズになるんだが、現状人間が追いついていない状態だ。人間が自分を消費する主体として、要求実現の優先度を上げて、社会維持の働きをおろそかにしてしまっているために、社会の疲弊が起こっていっているといっても過言でないだろう。人間、生きていくだけだったらそんなに知識や技術も必要はない。地域興しといった視点だったら、その地域で暮らしていくために必要なものをその地で学習すればよい。が、近代化というのは結果的というよりは必然的に地域産業を破壊してしまった。都市部ではあまりに人口が多いために地域コミュニティを意識しづらく、どうしても学校で行われる勉強というのは自分の立身出世・夢の実現に向けられ、地域コミュニティに必要な人材育成という風にはならない。そして田舎では仮に地元で就職したくとも産業が壊滅的に破壊されたところでは高学歴を修得しても使い道が無く、実入りの良い仕事は都市部にしかなく、優秀な人材は流出してしまわざるを得ない。
 まぁかなり難しいワナ。学校が機能不全を起こしているのは間違いないんだけど、じゃぁ教師の責任か?と言われゝば、それは全く筋違いなんじゃね?と言わざるを得ない。もうわれわれの生活が近代化の恩恵を受けずに維持できない以上、近代社会というシステムを理解しなければならないのは必然である。ヘンな話、携帯電話で頭の悪い会話をしているノータリン小中高生であっても、近代システムが携帯電話をもたらした以上、その携帯電話を利用するためには概念的な構造理解やリテラシーは把握しておくのが必然なのだ。消費する主体だけでいたいという我儘が今までは許されていたのだろうが、本来それは許されないことだ。何度も言っていると思うんだが、高度分業社会になっている以上、そういう構造を理解しておかなくてはならず、自分は消費主体でしかないから生産や流通などについては考えるのを放棄しますよというのはおかしいことである。でも現に学校というシステムが近代化の恩恵を受ける社会を維持発展させるためのものでありながら、その利用者がその意図を全く無視して我欲の実現に利用してきたという流れがずっと続いてきた。社会を理解するために学校システムを使うのではなく、社会的ポジションの確保のために学校システムを使ったのだ。
 だからといって処方箋があるわけでもない。学校システムをよりにもよって能力の低い政治屋文部科学省の厄人が仕組みを作っており、しかも欲ボケした彼らは愚民教育を志向いるから、とても地域を発展させるために作り変えるとも思えない。なにより今の子供やその親が地域を維持発展させるためにどのように学校システムを運営するなり作りかえるなりという能力も、そうすべきという考えすらもないだろう。とにかく学力への意識の高い層は良い就職先を得るためのキャリアパスとして、学力への意識の低い層は福祉施設としての子供の預け先ぐらいにしか考えることをしないだろうし、まぁそれを非難するのも酷だろう。かといって近代化による恩恵を捨て去って頭の悪い文部科学省主導の中央集権的学校を捨て去るのか?。全世界的にそれをやるんだったら(各地域による自給自足を基本とする世界。交易は否定しないが流通にコストを極力かけないぐらいに最低限に抑える)、むしろ学校なんて壊してしまって地域独自の教育制度にしちゃったほうが絶対いゝんだけどねぇ。これだけ情報化が進んでしまった現在、地域によって教育の内容ががらっと変わることも無いだろうし。でもそういうわけにもいかんのでしょ?。