異国迷路のクロワーゼ 第10話

 アリス、金持ちのくせに幻燈機を見たことなかったようだな。
 いや、でも映画の黎明期でもカネ持ちはやれ音楽会だのオペラを見には行くが、映画そのものは見てなかったように思うしな。大道芸だってそうだろう。所詮庶民のお楽しみだったんだろう。
 いや、しかし今回は驚いたな。幻燈機を巡る描写は動画という意味でのアニメーション、もしくは見世物としてのアニメーションってことについて考えさせられた。アニメーターがアニメについて語るというメタ構造はともかく、スタッフなりの提示なんだろうなというのをひしひしと感じたのではあるが、原作にもこのくだりがあるんだろうなと思うと、なんともいえないな。パラパラ漫画と平行して語るのもやっぱそういう意味があると思わざるを得ないんだが。
 幻燈機のショーだが、基本静止画を投影して動かすだけなんだよな。まぁそれにしてもオスカー達が構成を決めて観客に提示しているから、台詞が無くとも物語という形式に近いんだろう。で、そもそもテレビもラジオも無い時代だからあの程度でも驚けたんだろうけど、今回の会場の様子を見てあぁ、なるほど楽しめるわけだと納得した次第。
 というのが、最初悪魔だとかを映したときに子供がビックリするんだが、その観客の反応が演出になっているのがよくわかる。大人が見たらたいしたことのない場面のはずなんだけど、周囲からのリアクションが観客全員をショーに引き擦り込むんだろう。で、見せている側もどうやったら観客が驚くのか、価値観が今ほど多様化しておらず、かつ顔見知りが大半であるあの環境では、心得たもんなんだろう。天女が上から降りてくるくだりは、おそらく聖母マリアが天使の祝福を受けるというシーンであり、まだ信仰心の篤かった昔だと、それなりの効果を持って受け入れられたんだろうなというのが想像される。そしてそれらのことが全部動かないものがなんで動いて見えるのか?という問いの答えの一つになっているんだよな。
 で、思い出したのが小学生の頃のこと。数回しか経験が無いのだが、当時は小学校で校舎をスクリーンにして夜映画会をやってたという記憶があるんだよ。何を上映してたのかすら覚えていないんだが、あぁ、あの感覚なのねと思い当たった。いや昔で言えば旅芸人の地方巡業ってところか。それこそ江戸期以前は旅芸人が来ると娯楽の少ない山奥では村総出で歓待したなんて記述を見かけるのだが、あの感覚なんだろうね。
 で、学校での野外映画会だが、やっぱあの縁日っぽい雰囲気が思い出されるのだ。いや自分は音楽ですら長らくライヴとかには興味が無くって、録音されたものを再生するほうがオンデマンドで気軽に鑑賞できると思ってたぐらいなので、この年になるまで臨場感の大切さに気付きもしていなかったのだ。映画会でも別に内容が見たかったわけでもなし、親子で連れ立って行ったのだが、別に親と出かけるのが嬉しいわけでもないし、そこで何か買ってもらうのが楽しみであったわけでもない。友達もしくは友達の家族と出くわして何か会話して楽しい思いをしたわけでもないのだが、なんかいつもと違う緊張感があったのだけは憶えている。記憶に無いということは面白いという映画でもなかったろうし、野外映画会に行って楽しかったと当時感じていなかったということなんだが、今、この歳になって、「あぁ、当時は楽しみ方を知らなかったんだな」とわかってしまうのだ。
 あ゛〜、なんていうのかな、多分その後野外映画会なんて廃れてしまったと思うんだけど、やっぱ商業主義っていうのかね?、映画を見るならちゃんとカネ払って映画館で見ろだの、家族単位でディズニーランドなどの娯楽施設にカネを落とせってなっていったんだろうなと思うと非常に切ない。野外映画会だと担当者はそれなりに大変なんだろうけど、たいしたカネをかけることもなく大勢楽しめるんだよな。家庭にTVがあって番組を家族単位(今では個人か)で見て、翌日職場や学校でその話をするってのも一つのコミュニケーションなんだが、大勢が一つの場を共有して共通体験をするってのはやっぱデカいよなと、ホント今頃になって気付くのだ。まぁ今自分の中で地域再生に興味が湧いていて、これもその一助というか考えるネタの一つにもなるんだが、あまりに長くなりそうなのでそれは擱いておく。
 さて、もう一つがクロード父の記憶。やたらクロードは突っかゝってたな。クロード父のそっけない態度がまた煽る。この歳になると、クロード父がクロードに厳しく当たっていたのは彼のためってわかるんだけど、この作品のズるいところはそういう素振りをみせないこと。幼いクロードの作業を取り上げたのだって、一人でやらせるにはまだ早いと判断して、やって見せているわけだ。優しい顔をすれば甘やかしになるってのがわかっていたんだろう。甘やかして手取り足取り教えてたら父の模倣で満足、いや劣化コピーになってたろうし、そうでなかったからこそ、今のクロードは父を超えようとしているわけで。で、BGMに悲しい音楽を使うのがまたミスリードなんだよ。でもまぁそれはまだまだ未熟なクロードは悲しさを感じずにはいられませんでしたって心情を表すということであれば正しい選曲にはなっているんだけど、行間が読めない視聴者だと「クロード父はもっと優しくしてやればいゝのに」とか思っちゃうだろうな。
 いや、なんか今回は自分の感覚がいつもと違うのか?(そうとも思えなんだけど)、内容が濃かったな。湯音がギャルリに慣れてきた様子なんかを見ると、上記慎んでいた街の再生にもつながるネタに事欠かないぐらいだ。もうキャラの動き・想いに一つの無駄も無いというか。で、あと2話で終わっちゃうんだ。もったいない。