異国迷路のクロワーゼ 第5話

 国民性の違い、なのかな?。
 湯音の語る日本人像とクロードの語るパリジャン像の違い、なのだが、なんかよくわかんないな。日本人は誰にでも親切だという話だが、まぁ自分も江戸末期〜明治中期までのことを漫画や落語、で本を読んだぐらいで知っているだけでどれだけ本当か自信がないが、やっぱクロードの語るパリ人とそんなに変わらないんじゃないかと思ってしまった。下町でも農村の集落部にしても、いつも顔をつき合わせている同士ではそれなりに親密で助け合いなんてのもあったろうけど、そうでなければヨソ者として警戒してたんじゃないだろうか?とも思うのである。他人に対する警戒感の有無は、日本だろうとフランスだろうと都市部のように絶えず人が行き交っているか、地方のように人間関係が固定しているだけかの違いだけなんじゃないかと。
 しかし、クロードの湯音への可愛がりっぷりはパネぇな。臆面も無く湯音のほうが大切だと言うのにも驚かされるのだが、でもちっとも嫌味じゃないんだよ。フランス人というよりはイタリア人の習性らしいのだが、相手が女性だととりあえず口説くというのでもなく、かといって一旦知り合いになったらトコトン仲良くなるのが流儀なんて言ってたのともちょっと違う。なんか子供をいたわる感じなんだよな。対する湯音はクロードに対してまんざらでもないという感じだったが、でも、男女の惚れたはれたというよりは憧れに近いものを感じる。燭台を持って走り去る少年の姿をどうもクロードは二階から眺めていたようなんだが、そのときはノーリアクションで、湯音が追いかけるような音を聞いたら猛ダッシュだったのだが、アレ、少年が泥棒だというのをわかっていたような描写だったよな。湯音には何かあったら呼べと言ってたから、クロードを呼ぶ声を待っていたんだろうか?とも思ってしまう。
 で、さらに言えば、オスカーが蝋燭や油を時代遅れと言ってたように、クロードも店は守るが、かといって自分の職が時代遅れだというのもわかってる風なんだよな。でないと…というほどでも無いが…燭台を持って走り去る少年を見たら見過ごすことは無いと思うんだよ。やっぱあの場面は燭台を盗まれても、「どうせアレは売れ残るもんだし」と考えていたフシが見受けられる。まぁ本筋はどっかで見たようなすれ違いで、フィクションにありがちな展開ではあるんだけど、それ以外のちょっとした部分に、これは本当にあの当時の人たちのメンタリティなんだろうか?、そうでなくともフィクションに名を借りたメッセージなんだろうか?と考えさせられる部分があって、面白い。
 なんつーか、昔語りついでに言及しておくが、今村の女たち (1970年)を読んでいて、今最終章(だと思うんだが)のアイヌの習俗に入っている。前半部分はタイトル通りの女性の習俗に関しての記述がなされているのだが、アイヌの記述はあまり女性に重点を置いておらず、全般に亘っている。瀬川清子柳田国男に見出された民俗学者で、フィールドワークで聞き取り調査をしているのだが、このアイヌからの聞き取りは戦前昭和のごく初期に行われたようで、それこそ明治はおろか、江戸期のアイヌの言い伝えがのっているのだ。で、アイヌの悲痛な叫びみたいなものが結構語られているのだが、逆に言えばシャモ(日本人)に騙される前の、豊かに暮らしていたアイヌの生活がかいま見えるのだ。ネットであたってみると、そもそもアイヌの受けた迫害は日本戦国期まで遡るのだが、近代化以降の明治政府の汚さだけでなく、戦国期からの日本人の汚さなんかも想像できてしまう。だから、西欧本邦関係なく、クロードや湯音のような気位なんてのは果たして本当に昔存在したのか?、いや、今だってあれだけの心根の人間なんているのか?なんて考えると、確かにクロード湯音はシンボルであって必ずしも実在を根底に据えているわけでもないんだろうけど、なんか物悲しくなってしまう。