荒川アンダーザブリッジ 第10話

 土地は誰のものか?。
 そもそも河原ってのは、なんだっけ?、現世とあの世を繋ぐ境界だって誰か言ってたな。まぁ神聖な場所なわけだ。あと、ふと思いついたのが、江戸時代にはあった入会地って、誰のものでも無かったよな。というか、共同管理というか。仮に身寄りが無いものが流れてきて住み着いても、あんまりやかましいことは当時言わなかったはずだが。いや、共生できるってのが条件だとは思うけど。それを誰のものでもないからって接収したのが政府だっけ?。ま、いうなれば国家による泥棒だよな。存在する土地は誰かの所有にしなくちゃならないという理屈だと思うんだけど、政府だけでなくって、当時の地主とか懐にしたのが多そう。
 ということをつらつら考えてみれば、河原なんて市街地の公園と違ってかなり公共性が高く、それまで問題になっていなかったのに、今話のように立ち退きって横暴だわな。それまでに、「河原におかしな人が住み着いてます、何とかして下さい」って行政に通報が行ってゝもおかしくはないのではあるが。そういうのを描いていないから無かったことにするのもアレだが、いちおう流れとしては、河原の住人は付近住民には迷惑をかけずに過ごしていそうではある。
 だからというか、まさに作品の意図であろうかと思うんだが、他人の生存権を侵してまでカネで買おうとする態度、特権階級に都合の悪いものは国家権力で排除って姿勢に怒りを覚えざるを得ない。で、こういうやり方ってのは、自民盗や財界を初めとする日本を牛耳ってきた集団がやってきたこと。
 カネなんて、他人の欲しがるモノというより他人に喜ばれることをしたその報酬として、保存の利くモノで価値を代替したものだろう。それが現代では弱者をこき使って富を奪うことによって他人を従属させるまさに権力の記号として機能してしまっている。いや、太古の昔からそうなっていたと思うんだが。価値の一元化とか保存性を考えると、これほど便利なモノはないんだけど、もう意味が転倒しているわな。
 そもそも人に役に立つことをして得た報酬って側面は無くて、他者を苦しめて得たモノになっていて、それが使われるのもまさに他者を苦しめるためってのが二重どころか三重にも救えない方向を向いている。そうはいってもキレイ事ばっか言ってられないしな。一個人でしかないのに公務員というだけで居丈高になっている役人をこっぴどくやりこめるマリアの強さと、排除されそうになったら上流に逃げればいいじゃないという村長の弱さ(というかこれが強さなのか)のバランスが胸を熱くするんですよと。
 ビードロと泥団子のはなしも悪くはなかったケド。