しゅごキャラ! 第46話「りま降臨!?お笑いの神様!」

 スゥのスタミナジュースを口から垂らす亜夢、卑猥。これも狙ってるだろ!。
 さて、お笑いの神様ことりまのお手本を皮切りに、どれもこれも実際には笑えないアクションやネタってのはどうなの?。っつーか、りまの芸に至っては、誰も笑っている描写すらないし。とはいえ、別に実際に視聴者を笑わせなくとも、そういう場面でした…というのを示すことができれば、それでオッケーではあるんだが。
 で、実際にはこの作品の特性通り、笑いよりは感動だわな。りまの指南はむしろ芸人一般に必要とされる基礎部分ではあるので、あながち間違ってもいないんだろう。
 うーん、これからは思いつきで書いてしまうんだけど、笑いってどうなの?という部分の突き詰めが欲しいところかな。もちろん、キャラは小5なので、まさか彼女たちがそこまで考えて芸をしているという描写は必要なく、今回のように思い込みとあこがれで突っ走るという流れで構わないのだが。
 で、なんというか、人間が笑うという行為を、単純に人間の動物的部分で攻めるのか、人間が社会的存在である部分で攻めるのがいいのか?という場合分けは必要となってくるだろう。前者であれば他人を傷つけてもオッケーだし、安易に下ネタにはしるのもオーケーだ。が、それを考えるのはどうかなぁ。また、やれ緊張の劇的な弛緩状態を如何に人為的に作り出すか…という話もなんだかなぁで。やはりここは後者の立場で考察するのが妥当だろう。いや、敢えて困難な選択をして当たり構わず吼えてもいいわけなんだが。
 特に、現代のように豊かなはずの日本で、*1大多数の国民が貧困層に突き落とされ、世の中がギスギスしている時代こそお笑いが必要になっているはずで、でも自分が歳をとってもおり、TVのヴァラエティがトコトンつまらなくなっているという噂でほとんどそれを視聴しない状況で、救世主とよばれるお笑い芸人の名前を聞かないというのもおかしな話だ。で、そもそもお笑い芸は、下層民にこそ必要であるはずなのだ。よく考えて見て欲しい。世の中が豊かなのに、全員がお笑い芸人のパフォーマンスでいつも笑っている状況を。ありえないだろ?。幸せなんだったら、そもそも笑う必要が無いだろ?というわけだ。もしみんなが豊かなのに、必要もなく笑っていたら、それはおかしい世界だ。そもそも上流階級はお笑いを下品なものとして忌避するものだ。そりゃそうだ。彼らは満たされているから笑う必要が無いわけだ。では、なんでお笑いは下層民のものなのか?。よく考えなくても、つらい現実を忘れるための逃避手段、ガス抜きとして必要なのは想像がつこうもんだと思う。
 だから、「人を笑わせたい」という動機の裏づけには、そういう虐げられた人々、貧しい人々に対するまなざしがあって、そういう人たちの現実を掴み、その鬱憤をどうやって発散させるか?という視点が必要だと思うのだ。できればこの作品の特質である夢もプラスで与えられれば上出来だが、まぁそれは置いておく。今まで生き残ってきた芸人を見ると、やっぱそういう視点を持っていたと思われる芸人だけが生き残っていると思ってしまう。個人的経験でモノを言って申し訳ないが、代表者として、ドリフ、たけしとさんまを挙げてみたい。自分が中高生の頃は“マンザイ”ブームで、ありとあらゆるお笑い芸人が現れて、そして'90年代には蜘蛛の子を散らすように静まり、その後ねるとんあたりで、漫才師が漫才以外の手段で露出する段階があって、ほんでもって'90年代後半になってヴァラエティ化したお笑い芸人と並行する形で若手が抬頭してくるわけだ。で、生き残った彼らはむしろ文化人という捉えられ方をしていると思う。さんまはちょっと若いかな。
 まぁあんまり、数こなしているわけでも無いのでアレだが、やっぱ彼らは(現実の人間的にどうとかという話はおいておき)芸の本質において弱者の味方という歳の取り方をしていると思う。いかりや長介踊る大捜査線で渋い役をこなし、たけしは乱暴なスタイルでありながら、社会の底辺を見据えた映画作りをしていると思うし、さんまは、いわゆるトーク番組に出てはいるが、細やかな心遣いが感じられる司会ぶりだ。たけしも映画監督に転身した当初は結構批難もされていたように思うが、いまや世界レベルでの受賞作家だ。
 で、彼らがもともと恵まれた人たちだったのか?と言われれば、成功した今となってはアレだが、小さい時に貧乏だったり、コンプレックスを抱えていたり、盛大な挫折経験があったりと、まぁさまざまな屈折要因があったりする。だからこそ、人間の弱さを知っているのだと思うのだが、そういうのが背景にあったりするのではないか?。
 最近も結構話題になったりしていると思うのだが、やはり、暴言は政治家以上に叩かれる。障害者をバカにすることをネタにしたマイナー芸人がネットで槍玉にあがっていたり、爆笑問題の太田がニートを批難して、「オマエがいうな」と批判されていたのも記憶に新しい。やはりお笑い芸人は、弱者の気持ちをわかって、そして、であるからこそ弱者の求めるものを与えてくれる存在として支持されているわけだ。だからお笑い芸人が弱者を叩いて人気を得ようとすると、「弱者の味方だと思ったのに*2…」と裏切られたと感じるわけなんだろう。別にお笑い芸人が弱者を叩くそのこと自体がいけないのではない、ネタとして叩いていても、やはりその叩かれる弱者に対する優しさが込められているのであれば、決して袋叩きにはあわないものだ。
 そう考えてみると、例えばたけしなんかは過激さをウリにしてはいても、そういう部分は絶妙に考えてあったのかもしれない。まぁいかりやの晩年やさんまなんかはわかりやすい優しさだわな。
 まぁそんなわけで、表面的な面白おかしさを目指してお笑い芸人を目指すというのが、小学生を超えて中高生ともなればアホなんじゃねーの?というわけになるのだが、まぁ小学生だからね。社会の不条理あたりを描写してみせるわけにもいかんだろうし、自分が笑って楽しいからといった単純な理由でもいいんじゃねぇのとは思う。
 多分、今までつらつら述べてきたことも今回だと、亜夢*3やりまは、通っている学校からして上流に近い層であり、最初は亜夢だってお笑いに興味がないと言っていたし、りまだって、ほんとうにお笑いが好きというよりは演劇の一形態としてお笑いをとらえており、自分がお笑いによって笑わせられる立場ではなく、お笑いを研究しているという立場である。比較的お笑いを必要としない階級だ。
 反面ゲストキャラ都は、学校の様子からするとあんまりお金持ちといった感じはしない。そもそもりまの見かけからして「あのお嬢サマとも思える容貌の子が下品なお笑いに興味があるなんて」というギャップをウリにしているわけなんで、やはりお話としてお笑いの社会的構造についてスルーしてはいても、決して無意識に作っているわけでは無いとは思うな。

*1:自民党経団連などの政財界の特権階級により、

*2:実は弱者を喰いものにするだけだった

*3:両親がフリーランサーだから、むしろ遊民に近い立場だとは思うが、あの高級そうな学校にやるだけの資金力はあるという設定なんだろう