機動戦士ガンダム 逆襲のシャア

 シャアはロリコン
 GyaOで視聴。ちなみに初めにCMが入るが、それ以降はノンストップで2時間ぶっ続け放映なので、お茶や菓子は準備の上のこと。ポーズボタンをおしゃいいんでしょうが、失敗しました。
 1stはところどころ拾い読み状態、ZとZZはいちおうほとんど視聴していたんですが、ほぼ忘れちゃってますので、うろ覚えの中いろいろ思い出しながら視聴。今Wikiを参照しながら書いてますが、ZZの後という時代設定らしい。そりゃブライトさんに高校・大学ぐらいの息子がいるもんなぁ。しかし、Wikiの記述“哲学的なテーマをも内包した”に、要出典のツッコみはあまりに切ねぇ。ついでに言うと安彦良和にキャラデザ、作画監督を断られたというエピソードも切ねぇ。
 ちょっと気になったのは、それまでヘタレアムロ、大人のシャアというイメージだったのが、ガンダム恒例のポエムの叫びあいで、最後らへんで逆転していたこと。種死デュランダル議長に池田秀一の声を当て、あの結末にしたというのはなるほど、これを踏まえてのことかと妙に納得させられる。
 クェスやハサウェイなどの子供層、ギュネイやチェーンの子供っぽさを残した大人層、それ以外の大人層という分け方からすると、トップ二人の対照は際立つものはあるが、しかしシャアのカミングアウトは普通しないだろう?という気はする。しかし子供層がほんとうに幼稚な考えなので、ある意味安心できる。
 '88公開だから、なるほどといったところである。efやマイユアを見た直後だと、今の子供層に如何にたくさんの重荷が背負わされているのかというのが想起されて重い。週刊現代だったか、爆笑問題の連載があって、昔に戻りたくないと言っていたが、自分は'80年代に戻るのなら大いに賛成だと思ってしまう。子供に過剰な権利や影響力をもたせないが、そのかわりある程度は無責任な行動や発言を許容する。大人の側でも勝手な子供はまともに相手しないし、歩み寄りと称してわかりやすい説明などしない…どうせ大人になれば若い頃の自分の言動について悟らざるを得ないから…っつーほうがよっぽどましだと思いますがね。
 GyaOの担当者がTPOをわきまえて、というかまさに今の時代だからこそある作品を選ぶというプロデュース?の仕方は本当に絶妙で、前から言っている中曽根内閣からの時代変化を先取りした部分が見受けられて感心するばかりだった。1stはあまりそういう要素がなかったが、ZやZZは今のキャラ萌えに通ずる配置が目立っていて、いや本当ならチェーンかわいいよチェーン萌えとか、ナナイ姉萌えだとか言ってもいいんだけど、そういう要素は当時の雰囲気はあるにせよ忠実に排除されているような気はする。
 まず、ジオンが今のダメリカや自民党あたりと重なるというのが興味深い。地球連邦側にしたって裏取引をしており、腐敗や汚職のすすんだ組織であったりする。ジオンの側は基本煽動政治、なぜか貧困層からの(理屈を欠いた)支持があるっぽいこと、そして何より強権的で暴力を簡単に行使することが顕著である。クェスが父をメクラと、アムロがシャアにいみじくも言った「高いところから人を見下す」と他人から見透かされているところも良く似ているといわざるを得ない。で、冒頭のシーンにもあるとおり、高官の施設は豪華で、それ以外の建物はみすぼらしく、とても公正な資本配分が行われているとも思えないし、特に反社会的行動をとっているわけでもない(描写そのものがないんだが)クェスたち若者を抑圧するのは公権力であったりする。で、クェス自身は特権階級に属し、一部分見えていても所詮お嬢ちゃんだから根本をわかっておらず、シャアの選民思想にあっさりと転んでしまうというのも妙な説得性があったりするが、それはまた別問題として。
 最後らへんのアムロの絶叫ポエムでは、エリート革命による政体がダメになっていくというどう考えてもソ連です、本当にあ(ry…が示されていたが、数年後に本当にソ連が崩壊していくなど、出来すぎなんじゃないか?と思わなくもなかった。まぁエリートによる共産革命を信じてなかったっぽいな。
 ケーラとレズンの両陣営の女性パイロットの結末も唸らされるものがある。当時は女性の社会進出がことさら叫ばれていた時代で、それにしたって、'70年代に初公開の1stは女性は軍隊に所属していてもあくまで補助とか支援任務としての役割分担であって、ZやZZにおいてパイロット分野に女性がわりと普通に搭乗するという流れになっていた。ガンダムエースでは原画の北爪による、若い頃のハマーン萌え萌え漫画が連載されていたわけなんだが、それでもいちおうZZのハマーンはどうやら実力である地位まで上り詰めたらしく、決して女性の進出を否定していたわけではない。この作品でももちろん圧倒的に男性パイロットが多く、戦死者も男性のほうが多いんだろうが、わざわざ連邦・ジオンの両陣営から女性パイロットをクローズアップし、終盤の早い段階から物語より切り捨てていることを考えると、女性が社会に進出してもどうせ切り捨てられるだけだよ…という後ろ向きな主張をしているように思えてしまう。
 で、一応富野監督の主張として、アクシズ落下を食い止めようとするアムロに、連邦・ジオン関係なく協力させて押し戻す…というのは、エリートによる共産革命はアムロに否定させるも、人類全体の共感による変革というのを信じているっぽい。ニュータイプの(再)定義もここでなされているらしく、台詞でもそうだし、チェーンが持っていたサイコミュ(だったっけ?)が全範囲にメッセージを送って、それに多数の人間が応えるとか、共鳴によって個人の実力の加算では決して動かすことの出来ない事態を動かしちゃったりとか、共感を20年も前に先取りしていたのか?と思うと、感慨は深い。
 あまり自分が理解しているとも思わないんだが、安彦良和がやはり強権的な抑圧政権を苦々しく思い、格闘する主人公を描きながらも作品中ではその成長物語にとどめ、決して社会の変革要因とはならないというルサンチマン的構造を描くのに対して、富野由悠季はわりと人々の協力体制を楽観的に信用しているのかな?と思わなくもない。いや信じてなくてもそうせにゃならんよという主張なのかも知れず。富野が'41年生まれのプレ団塊で、安彦が'47のモロ団塊にあたり、物心がちょっとはつくと思われる小学校に入るぐらいには富野は戦後の大混乱期ではあるが、専制政治から民主国家への編成替えが行われていた時期、安彦は戦後復興がひと段落して日本が独立し、だが吉田茂の強権政治が日本を振り回していた時代と考えると、富野がいくぶん楽観主義、安彦が希望を失わないながらも悲観主義ってのはわかるような気がしないでもない。安彦がこの作品に対しての協力を断ったというのも安彦自身の現実主義的なものがそうさせたんですかね?。今ではガンダムAに参加し、ガンダムOriginを執筆したのもどういう心境がそうさせたのかはちょっと気になる。
 まぁそんなわけで、割と希望とか感じさせる明るい部分は最後の部分ぐらいで、全体的にはこうなんというか、閉塞感漂う展開でスカッとしない作品ではあると思う。先見性云々というよりは、富野が日本の構造を意図せずとも結果的に喝破していたとでもいうのなら、昔の人間ですらそう感じていたんだから、今の日本が停滞どころか奈落の底に落ちていくというのが妙に腑に落ちるというわけだ。見ていてワクワクする作品じゃないんだから、ある程度思索しながら視聴する態度は失わないほうがいいんじゃないかと、余計なことを考えつつエントリーを閉じることにする。