くまみこ 第6話

 ヴィレヴァンに行けといったのは爺どもだから、なつは悪くないのでは?。
 うーん、わからなくなってきたな。ヒキでなつがげっそりやつれ、まちがつやつやという表現は「ゆうべはお楽しみでしたね」のモンタージュ技法であって、それは前夜のかけあいに「いちゃいちゃ」という擬音がわざわざ被せてあったことからも明らか。こうなると、もうまちはなつに与えられた嫁という解釈しか成り立たないのだが、そうなると自分が前に推測していたアイヌの熊送りには熊を歓待することはあっても嫁を与えたりする風習はないという繋がりは捨てなければならない。そうなると、なつは土地神を獣の姿のまゝ人格化したものという解釈は果たして成り立つのか、もしかするとなつは在来の実力者もしくはその子弟とかであって、まちは生まれながらにして両家で取り決めがなされていた許婚ぐらいのほうが合ってるような気はした。
 なつが獣の形をしているのも、異種姦の隠微さを想像させる機能を持たせているのかと思っていたら、なつが本当は人間の許婚であれば逆に人間同士の婚前交渉を想像させるからその連想を嫌って獣の形にしているのかも。
 まぁ村の因習の描写よりも限界集落のもつ問題点と村興しの困難さを描くほうに主眼は置かれているだろうから、その因習自体はガチに作りこまれたものでなくて、どこにでもありそうななんちゃって風習でよいのであり、因習とこの作品の構造とを関連付けたりする必要はないんだろう。そういうのが重要視されていた時代はとっくに過ぎている。
 というわけで、なつとまちの擬似夫婦というミクロ視点と村の持つ問題点であるマクロ視点がどう齟齬を起こし、この作品がそれを通じて何を伝えたいのかよくわからなくなった。というか考えるのがめんどくさくなった。良夫と響もすれ違う二人というよりは、むしろ仕事(というか組織)にかまけて家のことを省みない夫が良夫が持たせられている役割であって、やはり良夫と響も擬似夫婦として描かれており、村という組織がいかに組織の構成要素である家にいる個人の気持ちを省みないできたか、確かに生活を成り立たせるためには経済的に家を解体して共同作業をしなければならなかった時代があって、その当時はそうするしか仕方がなかったのではあるが、都市の発達によってそういうあり方を続けることでどんどん構成員に逃げられて衰退していったという推移があるだけに、組織のために個人の気持ちを無視することで起きる弊害とやらを今回は描いたのかもしれないが。で、余計なことだが、そういう村のあり方だけでなく、では都市部のあり方が正しいかと言われたら、決してそうではないといえるだけになんともなぁ。