Free! Eternal Summer 第5話

 渚が親に水泳部をやめろといわれて迷走する話。
 周囲が本人を励まして親に気持ちを伝えて解消するという、まぁいつもながらのどこかで見たような話。うーん、ヘンな話、一番大切なのは親との交渉のシーンなんだけど、その一番大切なところを描写しないで、助け合いだとか支え合いだとかの美しいと思われる部分だけ抽出するといういつもの手法。
 なんというか、結局視聴者層ってのはそういう途中の経過なんてどうでもよくって、結局(この場合は水泳部を続けたい)自分の願望が叶う場面を見たいと思っていると判断しているってことなんだろうな。その省略してはいけないハズの一番大切な場面を描くためにはそもそも渚の家庭事情、それも親のあり方を今までに何度か顔見せして描いておかなくてはならないし、状況説明もしておかなくてはならない。それは大変なんだけど、思春期の進路と直結する微妙な場面をそれなりに視聴者に訴えかけるためには逃げちゃだめだとは思うんだよね。どうせ渚が水泳部を退場するということになったら話が続かないし、そのへんいくら奥深い作品にしようとしたところで、結論は決まっているわけで、ヘンな話、そういう結論が決まっていて周囲はグダグダ文句を言わずに賛成してくれたらそれでいゝんだってのはもう病理でしかないと思う。今回の件はそれは親の渚に対する態度がそうだし、渚の親に対する態度もそう。
 そもそも日本の(特に自民盗)政治自体がそうであって、国民は無理やり黙って従わさせられるって構造がもう戦前から100年来ずっと続いているんで、双方の丁寧な突き詰めで両方にとって得るものがある形にするという議論をずっとしてこなかったし、おそらくこれからもずっとそう。だから強いものが弱いものを虐待して強いものが好き放題するってことが続いてきたし、そのためには買収も賄賂もすべて駆使するという腐った構造が温存されてきた。だからおそらく渚と親の対決シーンは描けない。
 相手を説得するというシーン自体が現実にはありえないものだし、かといって現実であるところのどちらかの主張が一方的に通るという場面も描きたくない(おそらく今回リアルに近いところでは渚の我侭が通ったという形になっているはず)だろう。で、そういう構造を視聴者に示すということもせず、安易に視聴者が嘗て高校生だったときには部活動でそういう制限をかけられるのが周辺に一人はいたよねというあるあるエピソードでお茶を濁すという。こういう設定が後に響くのでなければ、いっそのこと描かないほうがよいとは思うんだよね。
 男世界の美しい世界を腐ったお姉さま方に示すというのをメインに、高校生活のあれやこれやの追憶って形だろうから、いきなり説得の本質について視聴者に問いかけることなんて考えてもいない(もちろんテキストを考えてる人は念頭においてるだろうけど、商業作品にする段階で初めっから諦めてる)と思う。なら水泳周辺で美しいことだけ描いてればよいのにという気がするんだよね。ダメ?。