リトルバスターズ! 第14話

 ラスボス西園攻略完了。
 記憶は不確かなものであるだとか、結構自分でも感じることが多かったのでかなり惹きつけられて見てしまった。こういう感覚、一度味わってからでないと、実感を持って受け入れられなかったりしそうだな。恭介が「世界が不確か」である感覚がわからないといったのがそういうところか。
 美鳥が美魚の架空のトモダチだってのがなるほどだった。美魚が読書家だから、本からいろいろな人間のパーソナリティを学んで、一番理想だと思える他人を作り出したってことなんだろう。絶対そうであるということでもないんだけど、砂浜で美魚と美鳥が出くわす以外は、注意深く両方が登場するシーンが避けられていたので、おそらく西園が一人二役を演じていた二重人格というのが結論なのかな。まぁそうだとすると、美鳥状態の西園は理樹に対していろいろ吹っかけていたが、あれはやはり「本当の自分であるところの美魚」を認めて欲しいという悲痛な叫びだったと考えることができる。
 そういう風に考えていくと、これはかなり現代における自我の獲得…というか承認というテーマを抱えているような気がしなくもない。別に西園のように物静かな自分と社交的な自分の両極端な例でなくとも、人間誰しも社会に適合するために被りたくもないペルソナをつけて自分を押し殺してたりすると思うんだが、その反例を示しているというか。西園の場合、リトバスという彼女のパーソナリティを気にしない…というか、それがあたりまえであるという集団に囲まれ、自我とペルソナのあいだの乖離に苛まれているときに理樹という助けが入るという好状況にあって、初めて西園が西園らしくあることができる…というのが、物語では美しく描かれてはいるが、現実にそういう場面というか状況ってのはありえないというか。ヘンな話、自我を捨てるというのは社会の歯車になるために必要な条件(少なくとも営利企業に入るときにはそういうのを捨てさせられるような気がするが)でもあったりするので、西園が美鳥状態になり、それで周囲に認知されていくという過程は彼女にとって社会性を獲得するために必須だったのではないかと思わなくもない。ヘンな話、無理に引き戻さなくても…という結論が成り立ったりする。
 しかし、そう考えても、人間社会に適合するためには自分を押し殺さなければならず、そして、他人にも自分を押し殺すことを強制するという現代の構造が正しいとも思えないんだよね。もちろん個人のパーソナリティが他者を害するものであってはいけないとは思うんだけど、そうでもなかったら、人間が人間を押し潰し、社会が画一化して息苦しくなる…というか既になっていると思うんだよね。しかし、この作品はあくまで子供社会が舞台になっており、けっして大人社会でどうすべきか?という話になっていないしな…。いくら美しい話でも結局社会を動かす概念にはなりえないのかもと考えるとちょっと空しいというか、なんかもどかしいというか。