PSYCHO-PASS 第18話

 まぁヤクザ映画のクライマックス直前、殴りこみ前の儀式だよね。
 狡噛なんてシステムから厭われ、また今回もシステムに煮え湯を飲まされているのに、そのシステムを守るために自己犠牲。いや、なんだろうね?。まぁ胸に来ないわけではないんだけど、これってそれこそ安倍の望んでいる戦後レジームを脱却して戦前特権階級がやりたい放題できるシステムを温存することにしかならないんだよね。日夜システムに使い潰されているサラリーマンの応援歌のフリして、結局体制を維持させるだけのガス抜きにしかならないというか。
 すべて免罪してまで組織に槙島を取りいれようとする、徹底的な体制側のえこひいきにも反吐が出るわな。槙島はその体制側を徹底的に嫌っているのにだ。体制側にとっては狡噛も槙島も意に沿わない存在なんだけど、この槙島への執着ってのはなんだろう?。槙島のやってることは前に出てたバンドのねーちゃんと同じなんだけどね。まぁ振り返ってみれば槙島は無駄な殺人をやっているように見えながら、それをわざと朱に見せ付けることでシステムの矛盾に気づかせ、より人間らしさを取り戻させようとしているようにも見え、彼と組んで行動することこそがディストピアを解消する最善の方法なんだろうけどね…。槙島自身共闘とか嫌いそうではあるが、システム破壊のためつるまなくても連携はできそうだけど。
 しかし、ドミネーターの不正処理を目の当たりにしているあたり、朱はおろか刑事達の大半が縢は局長および体制側に消されたって思ってるだろうね。そのへんの作品に漂う雰囲気を考えると、案外ディストピア破壊ENDで、これからの世界は我々が作っていくなんて〆になるのかもしれないし、まぁ普通にディストピアはこれからも続くENDになるのかも。まぁ仁義なきにしろヤクザ映画のフォーマットの範疇を超えてないというか。まどマギもまどかゞ犠牲になりながらも世界自体は変わらず、まどかの思い出を背負って現実と戦い続けていくしかないって結論だったような気もするから、それほど驚くような結末にはならないのかな。世界を変えるためには自分で考えるということが必要だが、そのために自分でモノを考えることのできる人が犠牲になり、自分ではモノを考えない人々が安穏とその犠牲によって得られたものを享受して世界の構造はずっと変わらないというか。