ファンタジーもの、あれこれ。

 実は一週間ほど前から思いついていたことなんだが、帰宅すると忘れてしまって…ってのが多かった。シュタゲのエントリーを書いている最中思い出したので、メモとして書き留めておきたい。
 なんのきっかけか、もう2ヶ月ほど前から「理想のヒモ生活http://ncode.syosetu.com/n3406u/というネット小説を見つけて読んでいる。これが面白いのなんの。大学のとき、友人に聞かされて以来、自分もヒモにあこがれていて、いや、ホント飼ってくれるんならだれか自分をヒモにしてくんないかなぁ、仕事も家事もやらずにぶらぶらして楽に暮らしてぇなぁとずっと思っているが、世の中そんなに甘くない。そういった日頃の動機もあって、この小説を楽しみに読んでいる。
 が、言いたいことはこの小説の素晴らしさなんてのではない。小説を読もうのトップページに移動すると、他の作品の紹介を目にすることができるわけなんだが、そこで驚いたのは異世界モノの多いことであった。で、その紹介を読むと、ほとんどが「異世界に行って楽しく過ごす」ってパターンのものが、いやというほどたくさんあるわけだ。中身をいちいち確認しなかったのだが、正直気持ち悪かった。こんなに現実逃避を作品にしちゃう人が多いのかと。
 まぁそうはいっても、アニメやドラマもそういう現実逃避、特に萌えアニメだとかハーレム物なんて直球なわけで、自分が好きで読んでいるというこの「理想のヒモ生活」だって、その範疇なんだが、これらは気持ち悪いとは思わない。なんでだろうなと考えてみると、自分が気持ち悪いと思う作品は、まったく現実に背を向けてしまって、自分にだけ都合のよい世界を設定し、そのなかでひたすら楽しむって感じなんだよな。
 これだけネットが普及し、昔だったら同人誌すら製作や販売するのにハードルが高かったのが、ちょっとの手間で自分の作品を公開することができるようになったってのも大きいんだろう。同人誌即売会が流行りだした頃も、作品のレヴェルは低かったと思うんだが、敷居が低くなったという影響を考えても考えなくても、こういう作品が氾濫しているのは、やはり世相を写しているとしか考えられないのだ。
 で、それが、シュタゲでも述べた、「今居るこの時代この場所は自分がいるべきところではない」というもの。今の日本、そう考えている人が多いんだろうなと思ってしまう。そりゃ商業的に提供されるテキストも、ドキュメンタリーで無い限り、ファンタジーやフィクションでしかない。が、それらは現実社会では存在しないモノであっても、やはり作者(スタッフ)と読者(視聴者)をつなぐ接点が存在し、それが双方が共有できるがゆえにコミュニケーションが果たされる。が、まったく作者にだけ都合のよい世界・世界観だと視聴者との接点を持つことができないわけだ。共有概念があって初めてコミュニケーションが始まり、そこで共感できるできないって段階に入っていくのに、前提からして他人を拒絶しているような小説が多かったりする。
 で、繰り返しになるが、そういう作者群もきっと現実世界に満足してないんだろうなと、それもこの、今の日本はスゴク居心地の悪い場所と考えている人がたくさんいるんだなと痛感せざるを得ない。昔だって、そういう自分にだけ都合のよい設定の小説はやはりあったのだ。だが、昔は現実の日本に対して怨念に近いものを抱いて、それを拒絶するようにファンタジー世界で逍遥するってのはあんまり無かったと思うんだよ。そしてそういう自己満足小説に対してもあまり気持ち悪いという感情を抱くのではなく、むしろ人間誰しも大人になりきれない、少年少女の心をどこかに持っているもんだよねって感想を抱いていたような気がするんだよ。
 で、そうなってしまったのが、やはり日本の失われた10年であり、20年なんかなと。平気で他人の足を引っ張って奪い、貪る人間が跋扈し、あろうことか政府がそれを後押しするとか、人が人を切り捨てるというのを間近で見る経験をしてきた人も多いんだろう。その結果としての現実逃避モノの氾濫という現象。というのを最近よく考えるようになったのだ。