ふと魔まマで思いつきを垂れ流してみる。

 ちょっと前、ネットで読めるオリジナル漫画って某巨大掲示板のお勧めをまとめたサイトがあって、「真実の魔法少女」ってのを読んでいた。残念なことに商業誌にいっちゃって、ネットでの更新はもう無いらしいが、自分もほゞ一気読みに近い形で読了してしまったことを思い出した。アレは主人公が魔法少女のお助け、上記で言えばタキシード仮面役を中心とした、これまた群像劇だ。いや、魔法がっていう段階で既にファンタジーではあるのだが、お子ちゃま向けのものと違ってリアリティ路線っぽい雰囲気だったように思う。
 で、魔まマの脚本が虚淵玄で、この人が大体自分ぐらいの世代に近い。真実の魔法少女の作者は、プロフに無いのでわかんないんだが、自分よりは下の世代のように思える。が、10代ってことはないんだろうと予測している。魔法少女といったら、例えば自分が子供の頃はサリーだとかアッコちゃんだとかが思い浮かぶのだが、やはり特異点といっていゝのは、モモ・マミあたりのスタジオぴえろ作品のところと、セラムンのところだろう。どれみあたりで一旦日常路線に戻ったものゝ、今プリキュアが全盛なのをみると、トレンドはバトルものという流れと見ていいのかな。で、冒頭話題にした魔まマと真実の〜はやはりぴえろ作品とセラムンが奇妙に交錯した作品なのかもと思ったのだ。自分は実はセラムンは視聴していない(あのころはむしろ実写ドラマに嵌っていた…嵌っていたというほど見ちゃぁいないのだが)のだが、あのミニスカ姿を良く女の子が支持して見てたよなぁと奇妙な思いと共にブームを眺めていた記憶がある。で、虚淵もきっと見ていたんだろうな…いやプロだからターゲット層の嗜好をよく調査しただけなのかもしれないが…と思ったのだ。だから、この作品群ってのは、要するに、
 魔法少女アニメを見て育った人たちの、失われた20年を経験した後の総決算。
 なんだという気がしてきたのだ。いやいやいや、そういや、振り返ってみると、ぴえろ作品が人気を得ていた時代ってのは、大人になることってのは、たしかに個人の想いが実現するような単純な世界ではないんだけど、社会を担い、共同体を維持するために支えあう存在になることなんだというのが、まだ信じられていた時代だったのかな?と感じたのだ。で、魔まマを今まで視聴してきた段階で振り返ってみると、「子供だったおまえらが大人になって社会を見てどうだ?。あの当時と変わらず現在も大人の世界って大変なんだ、現実を思い知ったろう」という、大人になれない人種に今も昔も変わらぬ現実を見せつけるというものではない。真実の魔法少女は主人公のイケメンぶりは除外するとして、魔法少女の2人はメンヘラという設定である。で、そのメンヘラとなった原因も(一人はそいつ自身の原因にされかゝるのだが)外部が主となっている。そして、魔まマは今話の「一つを得れば、それ以外のすべてを失う」という言葉に象徴されるように、明らかに搾取社会ってのを前提としてる。もう、無邪気に「大人とは」というのを信用していゝ時代ではないのだ。
 昔なんかは大きなお兄さんが少女向けのアニメを見るなんて世間体的にも恥ずかしい行為だったわけなんだが、それでも視聴していた層に向けてのこのメッセージ。社会を担うんじゃなくて壊してきた大人、そしていびつになった世界で苦闘する我々。ハードボイルドを一つの作風とする虚淵が別に幸せなストーリーを描く必要もないし、そういうのを期待する層に向けた作品でもないわけなんだが、最近の作品が示す現実社会にたゞゝゞ慄然せざるをえない状況ってのがね。そして、プリキュアというバトルものが子供に指し示すものが、世の中というのは互いに支えあうというものではなく、ローゼンメイデンで真紅がいみじくも語ったように、「生きるということは戦うということ」であるという現実がね…。まぁ荒んでいるわな。