日本は科学技術で食っていくしかないのか?。

 科学技術と日本を読んで、ずっと考えていたことを思い出した。いや、実はリンク先の内容とはほとんど関係がないんだけど。
 日本は無資源国家で、加工貿易で外貨を稼いできたとずっと言われている。加工貿易に必要なのが加工技術であって、鉱石などの一次産品を最終的に三次製品まで仕上げるための知識が重要だという話だ。単純に言えば物を作って売る、そのモノの作り方が重要だというのだ。
 極論ってのもしかたがないので、ここは一つの考え方として捉えて欲しいのだが、江戸時代はほゞ鎖国状態で、それでも国内の人間は食うや食わずでありながら、それでもなんとか日本国内で自給自足が出来ていた。幕末の様子を描いた小説や歴史書を読んでも、交易によって海外と取引するのを末端の国民が望んでいたか?というと、意識の埒外だったろう。海外との交易で儲けを得ていた一部の藩はともかく、あまり貿易の必要性を幕府の役人たちも考えていなかったっぽい。
 が、当時は欧米列強による帝国主義が華やかなりし頃で、そういう波を目にしてしまうと国内だけでやっていくということは考えられなくなってしまう。うかうかすると植民地にされるワケだ。だから侵略されないように軍隊、それも近代軍隊を充実させることが重要になってくる。そして近代軍隊を維持するのに必要なのが産業の振興だ。そして軍を維持するのに当時最も必要なものゝ一つが兵士の数、すなわち人口だ。
 明治維新以降はそういう流れで西欧工業技術が輸入され、軍や産業自体はゆっくりとした成長ながら、最も急成長したのが人口だったりする。近代化に伴う外部動力の導入で農業が機械化されたり、肥料の改良によって農業生産効率が上がっただろう。それに伴って食える人口が増え、その増えた人口がまた産業に流れての循環で、急に増加したんじゃないかと思う。そして際限なく増えた人口が「国が国民を食わすことのできる限界」ってのをスカッと突き抜けたってのが重要ポイントなんだろうなと今になって思うのだ。
 その肥大化した人口を支えるため、もしくは軍や産業を支えるためには、莫大なコストがかゝる。その維持のために日本がとった政策が加工貿易による外貨獲得だったんじゃないかと思うのだ。
 で、じゃぁ人口が飛躍的に増えたってのが後々まで響くから、昔の人は後先のことを考えてそうすべきではなかったとまでは思わない。それはかなり不可避な現象だったと思う。たゞ、問題が顕在化した段階で正しい対策は練れたんじゃないかとは思う。失敗だったのは海外伸長のための軍の暴走で、それは選択としてなかったろ、さすがにとは思うのだ。ただ、先の大戦前後で8500万と、ほぼ江戸時代の3倍に膨れ上がった人口はとても日本国内の財をやりくりするだけではとてもじゃないが喰わせられなくて、「国民を食わすために加工貿易」って選択肢を取らざるを得なかったってのも、終戦直後の選択としては不可避だったと思う。で、国民を食わせられないって状況は、いくら明治以降農業工業技術が発達したとはいえ、もう大正あたりからはあったわけで、カツカツ食えるんじゃなくて現実問題飢えている人がかなりいたってのが終戦以降しばらく続いたってことだと思う。
 で、整理すると、終戦以降しばらくは国民全体が貧しく、食うためには外貨を獲得せねばならず、そしてその手段として明治政府以後整備された西欧近代工業技術のインフラを最大限活用することだったのだろう。そして貧しかった国民が高望みしなければとりあえず飢えることがなくなったのが高度経済成長期以降なんじゃないかと思うのだ。その過程で物質的豊かさを国民が享受してきたワケだ。三種の神器、新三種の神器ってのはそれを象徴するだろう。
 そしてだな、今また整理してみると、日本が工業製品で外貨を獲得してきたその技術を一つの装置としよう。その装置は財を生産する。国民が必要とするモノやサーヴィスを作り出してくれるだけじゃなくって、それで作り出した財を海外に売って外貨まで生み出してくれるワケだから、まさに富を生み出す打ち出の小槌だ。その打ち出の小槌を作り出しているのがまさに日本においては科学技術だったわけで、そりゃ経済界が血眼になって保持したがるワケだ。
 そして、国民を食わすことのできる打ち出の小槌は、じつはそれが生み出す財は国民にとってはほぼ必要の無いものになってしまった。いや、もちろん人間が生きていくために最低限必要なモノを生み出してくれてはいるのだが、もはや第三次産業の人口比率が半分をとっくに超えている時代だ。打ち出の小槌の生み出す財はあまりに多すぎて、押し売り状態になっているのが実情なんじゃないかと思う。
 そして、外貨を獲得する打ち出の小槌は、なんと、経済界が他国に売り払ってしまったのだ。他国自体は打ち出の小槌が手に入れば、わざわざ「日本の打ち出の小槌が作り出す財」を購入しないで済む。そしてそれだけでなく、他国もその打ち出の小槌で外貨を獲得し始めるワケだ。
 だから、将来どうなるかはわかんないのだが、その打ち出の小槌を追い求めた所で、もうそれは魅力のあるものにするにはとてつもなく時間がかゝるか、もう不可能ってほどになるんじゃないかと思うのだ。その打ち出の小槌を先人たちが完成させたのは、軍国主義という不幸な時代もあったが、明治維新以来100年以上経ってる。日本製品が信頼性を獲得したのは、日本製品が粗悪品の代名詞だった高度経済成長期じゃなくって、オイルショック以降の'70もしくは'80年代だろう。気の遠くなる話だ。また技術立国にするとして、一から出直すわけではないんだけど、それでも末端の作業者まで基本的な計算能力が行き渡るまでに教育力を上げるとして、もういまのゆとり世代の学力不足層は使えないから、これから作り上げていかなくてはならない。最速で今の小学一年生にゆとりではない十分な教育を施し、彼らが現場の中堅よりもっと歳を喰った*1世代、40ぐらいになるまで待たねばならない。最速でも35年かゝるんだよ。
 ノーベル賞の獲得ってのが、もう最後の煌めきの段階と言われているが、それもそのはず、彼らが活躍したのがまさに日本の工業製品の信頼度が高まっていた'80年代だからだ。それ以降は海外比率を増したりしてたので、当然末端の町工場の技術は一部を除いて徐々に衰退していってる。今の生産現場なんて、派遣請負いばっかりだから、末端の作業者にスキルなんてつかないだろ。つかないだけでなく、継承もされないから廃れる速度はたいへん速い。そして今の管理職ですら現場がわからないのに、それより現場を知らない人間が経営層につき続けるのだ。ゆとり世代でも優秀な人間はいる。いるんだけど、彼らは日本の経営者が技術者を大切にしないのをわかってるから、ずば抜けた研究者は海外に流れる。ノーベル賞学者も世界に出よと言ってるじゃないか。世界に通用する技術者は海外に流出し、日本に残るのは世界に通用しない技術者とフツーの人がぼちぼち、あと基礎学力のおぼつかない労働者ともいえない人間が一定割合ってことだろう。フツーの人も、昔だったら会社で成長できたが、今や使い捨てだ。使い捨てになる前に、苛酷な労働環境で折れてしまう例も昔より多いに違いない。
 とまぁ、夢のない話なんだが、結構教育インフラや、企業での人材成長インフラが壊滅的になっているので、口で技術立国と言っても難しいと思うよと。0からの出発じゃないかもしれないしね。壊れたインフラを0の状態にするのにコストがかゝるんじゃね?とも思うし、いや計算能力はなくても識字率は言うほど悪くはないから0よりは楽な段階から出発出来るかもしれないしで。
 ま、そういうわけで、実はもっと本質的な問題、もちろん裏づけとなる技術力も必要不可欠なんだけど、カネとモノの巡りを考え直したら、自給自足+コントロール可能な交易で国はうまく廻るんじゃね?というお題もあるんだけど、とりあえず、技術立国って夢は見過ぎないほうがいゝんじゃね?というのを主張して終わる。もう研究とか生産設備なんて本気になれば数ヶ月で整備できてしまうし、もっと重要な問題、そのハコ物の中で働く中身、すなわち人間がもっとも大事で、今日本はそれを疎かにしていて、新興産業国である中国・韓国・インドなどは人材が溢れるほど豊富だよってのを考えると、なかなか投資しても逆転、すなわちそれらの国々の生産品を押しのけて外貨を稼ぐ魅力のある製品を作り出すまでにはなかなかいかないよってので〆る。

*1:彼らが若手・中堅すなわち20台後半から30台の頃には、ゆとり世代が管理職になっているため、そのゆとり世代がまともな経営をする能力があるとはなかなか断定できないため。