あぁ、なるほど、東京ってのは奴隷労働に最適化された都市なんだな。

 今さら気がついたかって感じかな。上記エントリーをちょこまか修正してたんだけど、その最中に思いついた。
 通勤電車がひっきりなしに行き交い、それこそ山手線なんか2〜3分おきに発車するわけなんだが、これ、職場へと労働者を運ぶのを最適化しているワケだよな。人だけじゃなくて貨物も効率的に運搬できるよう、道路も最適化。たくさんの物流が生じれば、それだけたくさんの仕事が発生する。発生した仕事は当然こなさなくちゃならない。飯だってそうだ。コンビニ・ファミレス・ファストフードなど、極力待たなくて済むよう、そして手軽に食べられるよう提供される。
 だから、そこには通勤中風景や会話を楽しむ*1とか、十分咀嚼して味わいながら食べるとかという生活の臭いは一切排除されている。効率よく働けるよう、無駄なものは一切省かれ、奴隷として最大の能力が発揮できるようなものしかない。たとえ安らぎを感じるようなものにしたって、それは労働で生じたストレスのガス抜きという効果しかない。そして東京ってのはそういうのが極大化するよう最適化されている。
 だから、東京や、東京から生み出されたモノやサーヴィスがいくら便利だからといって、本当にそれをありがたがっていいのか?と言われると、やはり違和感がある。消費するものにしたって、長持ちするようなものはもう商品開発コンセプトからは外れているんだろう。長い間使っていくうちになじむとか、そして壊れても補修しながら使っていくってのはもうほとんどなくて、買い換え需要ばかりが根本にある。そうじゃないと金儲けが出来ないからだ。だからマスゴミを筆頭に次々に新しい流行が作り出され、古いものがスグ捨てられ、ドンドン消費させる構造になっている。そういうモノを便利だとかカッコがいいと思って、本当にありがたがっていいのか?。
 じゃぁ奴隷労働に最適化されていないモノ、それが地方には昔からあったのか?とか、東京より長く生き残っていたのか?と言われると、そうでもないんじゃないかと思う。というか東京は職人の町だったわけで、地方は行商人とか流れの職人ってのが廻っていたんだろ?。むしろ田舎では精緻を尽くした職人技はなくとも、生活の知恵で一人や周囲の手伝いなどを借りて何でもやれるって印象が強い。だから、モノがたくさんあったわけじゃないし、量が少なくとも人間味のある商品があったわけじゃなくて、東京から便利なものが田舎に流れて来、モノで飽和した時点で東京とほぼ変わらなくなっているってだけのことなんじゃないかと思う。
 文化的なモノなんて、一部の好事家のものであったし、東京から流れてくる便利なモノなんて、所詮奴隷労働を促進するだけのものなんじゃないのか?ってのが要旨。だから、そんなものが地方に溢れかえったからといって、そんなにありがたがることもないし、昔は都会からモノが流れてくるのが遅かったからといって、それが恥ずべきことでもなかったんじゃないか?ってのが、今振り返って見て思うことだ。いや、もちろん、昔の人間や、現在ですら若者たちがそういう都会のモノに憧れるってのは仕方がない(かった)よなってのも今思うことでもある。
 一例として日本の家電が技術開発でゴテゴテした機能をつけて便利であるのにもかゝわらず売れないってのは、モノづくりの思想として、奴隷労働に最適化されたアイテム開発だったからじゃないかとも思うのだ。舶来を礼讃するわけでもないのだが、機能が少なくてもなぜか使ってしっくりくるようなモノが欧米から輸入されて人気を得たりするが、そういうのは奴隷労働を基礎としない、使うことに喜びを感じるとか、やはり奴隷労働とは違う「何か」が埋め込まれているんだと思う。
 まぁ日本も生活のあり方から考え直したほうがいいんだろうな。都会と地方の違い以前にってところか。

*1:いや、通勤にそういう意味を見出すこともなんだかなぁとは思うが。