ビームラーオ・ラムージー・アンベードカル(1891〜1956)

――声なきものたちの指導者――

中央インドのマウーに十四人兄弟の末子として生まれる。しかし成人できたのは彼を含め5人のみであった。一家は州最大の不可触民カースト、マハールに属した。遺伝にも由来せず、その根拠は定かではないが古代インドのマヌ法典により触れると穢れるとされた彼らはヒンドゥー寺院へ立ち入ることができず、貯水池や井戸から水を汲むことさえ許されていなかった。マハールカーストは戦士族でもあり彼の父もセポイとして雇われていた。教育の重要性も理解しており学校に通うことはできたがそこで様々な差別に遭遇することとなる。しかし彼の才能は際立っておりその才能を認めたバラモンの教師アンベードカルは彼を愛し、自らの苗字を与えその後彼はアンベードカルを名乗ることとなる。

不可触民として初めて名門エルフィンストーンカレッジに入学し修士号を得た彼は開明的なバローダの藩王サヤジー・ラオ・ガエクワード3世の支援を受けニューヨークのコロンビア大学で多岐にわたる分野を研究。修士号と博士号を得てさらにイギリスに渡りロンドン大学で経済学を学びグレイズ・イン法曹学院で弁護士資格の取得を目指す。しかし奨学金が切れたために一度中断して帰国。バローダ藩国に高い地位で就職したものの差別から召使いにさえ物を手渡されず、家すら借りられない状況にたまりかねて辞職。コールハープール藩王シャーフーの奨学金により再度渡英し中断していた経済学の博士号そして弁護士資格を得た。

インド国民会議派やガンジーの不可触民撤廃運動などカースト側からの運動ではカーストの再編に利用されるのみであり不可触民自身からの運動が必要であると考えた彼はボンベイで被抑圧者救済会の理事長となり不可触民の社会的・経済的立場の向上に奮起する。1926年にはボンベイ州立法参事に留保された被抑圧者階級議員に指名される。翌年には不可触民に開放される決議が行われたにもかかわらずいっこうに実行されないチャオダール貯水池に行進し水を飲む。暴行を受けつつもその後、法的な勝利を確定させ各地の貯水池や寺院への行進を続けた。イギリスがインドの自治の範囲を検討するサイモン委員会を立ち上げるとインド人の委員が選ばれなかったために国民会議派がボイコットする中で委員会に協力。普通選挙では不可触民留保議席を、そうでない場合不可触民を分離した選挙を求めた。インド統治法の改正の為の英印円卓会議にも被抑圧者階級の代表として出席。イギリスの犬と罵られながらも不可触民のために分離選挙を行うことを訴えた。第二次円卓会議へ出発する前日にはガンジーと会談。カースト側からのガンジーと不可触民としてカーストを完全否定するアンベードカルは互いの立場の違いから分離選挙をめぐって対立。アンベードカルはガンジーと決別する。イギリスが分裂選挙を認めるとガンジー自治運動の立場からこれに反対。死に至る断食を行いこれの撤回を迫った。ネルーや他の国民会議派の指導者から説得を受けたアンベードカルはやむなくガンジーと会談。留保議員の譲歩と引き換えに分離選挙を撤回した。

独立後はネルー内閣の初代の法相を務め憲法草案起草委員会の議長として空席や不在により全く他の委員の助力が得られない中でほとんど一人で憲法草案を起草した。その第17条において不可触民性は廃止され、いかなる形においての不可触民性も禁止。カーストによる差別も禁止した。1949年に憲法草案は制憲議会によって採択された。その後ヒンドゥーの民放改正に着手するも近代的な家族法適用を目指したがために権益を失うことを危惧した保守派ヒンドゥーの強硬な反対により失敗。法案は廃案となり法務省を辞任し野党から総選挙に出馬するも国民会議派に敗北した。その後カースト制度と闘い、なおかつインドの伝統に根ざした宗教として仏教に傾倒。1956年10月14日に仏教に改宗すると宣言しマハーラシュトラ州ナグプールにおいて彼の呼びかけに応えた30万人の不可触民とともに仏教に集団で改宗。同年12月6日にこの世を去った。

 インド独立の際、低いカーストだったため、その功をねたんで独立の邪魔をされたという人を捜していたんだけど、この人かな?。