いきいきホットライン

 今日は高齢者の運転について。昨日、一昨日とイライラさせられたが、今日はちょっと雰囲気が違った。ボケ老人の問題と田舎の不便さと家族の懊悩が密接に関連していて、やり場のない嘆きが感じられた。自分が老いたときのことを知らず知らずのうちに考えてしまっていたのかもしれないが、年を取っていないのに自分だけのことしか頭に無くて、周囲に迷惑をかけるドライバーよりは、どちらも本人に理解させることに困難を伴うというか無理という点において、深く考えさせられる。投書では77歳になるというのに交通の流れを優先的に考えている老人がいるようにも聞こえたが、それ以外の投書、つまりもう正常な判断が下せないと周囲が思っているのに本人は老いてなお矍鑠という風に思いこんでしまっていて家族が心配しているという投書が多くて泣ける。
 ヘンな話、法律だけを金科玉条のように奉るだけで周囲の状況が全く見えない非高齢者よりも、周囲の状況に合わせて相手を思いやる高齢者のほうが、交通の円滑さにおいても安全さにおいてもよっぽど望ましい。そしてそういう人には毎日車に乗ってもらってボケを防止してもらいたいとさえ思うのだ。昨日も触れたとおり、運転をするということは常に他の交通者に気を配る必要があって、そのためには状況を常に把握していなければならないし、他人の交通を妨げないように常にいろいろな修正を行わなくてはならなくて、そういう風に頭を使うということは脳の働きを活性化させてボケの防止につながるだろう。そしてそういうのはあまり間歇すぎてはいけなくて、ある程度は恒常的でないと効果がなくなる可能性もあるのだ。もちろん車に乗ることだけが脳の活性化につながるわけではないので、そこらへんローテーションの組みようもあると思うが。だからといってボケ防止のために老人はすすんで車に乗りましょう!とは絶対にいえないのがまた辛い。前述のとおり、本人に自覚が無いのが大いに問題となるので、下手をするとボケ老人が大挙して公道で渋滞をひきおこす大原因になりかねない。
 また、そもそも車を使わなくても事足りる都会では問題ないが、車がないと生活が成り立たないレベルの田舎だともっと事態は深刻だ。ボケのしんどいところは、まず本人に自覚がないと言うことなのだが、そうでなくとも問題は残される。老人がボケたと自覚した場合、そのことを重く受け止めてしまってボケの加速度が増す可能性があって、それはそれで悲劇なのだ。自分がボケたとわかった上で、そのことを乗り越えたとしても、車が無くて不便するなどの問題が解決するわけでもなく、単にボケたから免許を返上しろと声高に叫ぶことがそれほど正しいとも思えない。そもそも不便するような土地は経済的に成り立たないからこそ公共交通機関が発達していないわけで、単に福祉の充実と型どおりにキレイ事を言ってみたところで誰がコストを負担するのか考えると暗礁に乗り上げるばかりだ。ではその老人たちをどうすればいいのか?家族はどうすべきなのかに考えが及んだところで、ちょっと話を休んでみる。