ぺとぺとさんはおいてけぼり

 昨日、今日ともんHKラジオ第一テーマヴォランティアを聴きました。だんだんと身の丈にあったヴォランティアの話になっていて、和やかな気分になれました。ちょっとしたことの例だったのでインパクトはないにせよ、あまり欲望にがつがつしていないのが微笑ましかったです。月曜日の話がキレイ事の皮をかぶった利益誘導のような感じがしましたので、昨日今日は拍子抜け。
 ヴォランティアをする側はどんな欲求があって行動するのか、未だに理解できないところがあります。人助けをしたいのなら、なぜそれを職業としないのか?という疑問が一つあり。災害に対する支援なら消防や自衛隊(本業ではないでしょうが)、介護関係なら福祉職などがあるでしょう。無償で人助けをするのは美しい話ですが、特にその部門への就業が困難でないのなら、天職としてもいいのではないかと思ってしまうわけです。職業としてはほかにもっとやりたいこととか条件がいいとかという場合も考えられますので、一概にそうでなければいけないとまでは言いませんが。
 話がちょっとずれますが、私が高校生の時のある日、故紙回収業者に引取りをお願いしたところ、それまでトイレットペーパーと交換してくれたのに、逆に回収料を請求されて凹んだことがありました。当時は故紙が飽和しきっていて、再生業者が安く買い取ってくれなくなったのでそういう羽目になったのだそうです。からくりは10年以上経ってある本で知ったからなのですが、子供会などの活動で新聞や雑誌の回収を行ったところ(つまりヴォランティアですな)、結果的に故紙回収業者の仕事がなくなったそうです。そしてそれ以来故紙回収のトラックを見ることは今の今までありません。故紙回収業者の仕事を奪ったばかりか、ごみとして出した方が得なので、故紙をリサイクルする習慣や、それをすることでトイレットペーパーがもらえるという特典も失ってしまったというのです。つまりヴォランティアという人の善意が、故紙回収のシステムを壊し、リサイクルとは反対の無駄使いの習慣を招いたというものです。数年前には故紙を中国が買い取っているので需要ができたという特番を見ましたが、もう以前の故紙回収システムはありませんから、ただで手に入れた故紙を中国に買い取らせて濡れ手に粟のウハウハの人がいるのかもしれません。以前なら、故紙を渡す方も買い取る方も得をし、社会全体として見ても資源の使い捨てでないシステムが成り立っていたのに…。いや、実情は違っていたのかもしれませんし、以前のシステムでも許しがたい利権システムがあったのかもしれませんが。
 まぁ本当のことだとすると、必ずしも善意の積み重ねが個人だけでなく全体の利益にすらならずかえって害であるという、誠に救いがたい結果になってしまうわけです。あまりチップという概念は私的には好きでないので、好意にはコストがかかっているから、すべてその都度金銭的に解決されねばならないとまでは思わないのですが。
 災害時のヴォランティアにしても、もともと自治体が災害に備えた人員配置をしていなくてはならないのにしていなかったとか、災害が起きたときにのっぴきならない事態にならないように、人口の流入を抑えるとか余裕を持った建築基準を決めるなどの都市開発/維持計画をしていなくてはならないのにしていなかったとか、先を見据えた考えがなされておらず、その尻拭いとして期待されているような気がします。単位面積あたりの人口密度を上げればそれだけ効率の良い経済効果が期待できる訳です。しかしそれは安全性の低下や住環境の悪化などを招くわけです。もちろん安全性の低下や住環境の悪化と引き換えに余禄とも思える貨幣を手にしているのですから、余裕を持った生活ができているわけで、災害寄付金やヴォランティアがたくさん集まったりするのでもありますが。みんながかつかつの生活をしていたら、他人のことまで気が廻らないよね。いやみんなが苦しいから助け合わなければならないという意識が生まれるという考えもあるけど。
 介護関係のヴォランティアについても、本来家族や近所の人が助け合って面倒を見ていなくちゃならないのにしていなかったとかありそうですよね。ヴォランティアが懇切丁寧に面倒を見ちゃったら意識しなくなるだけの話であって、かえって問題を悪化させるだけかもしれない。金で解決したらいいじゃんとか考えて、年金改革を行ったら経済が回らなくなって今慌てているわけですし。いつぞやは介護は外国人に任せりゃいいからどんどん移民を受け入れるべきとか言ってた人もいましたが…
 日本人は水と安全は無料だと思っているなどと、情けないことを言われていますが、それも水や安全にコストを掛けているという実情が見えないだけであって、実はそれなりの対処が払われてはいるわけです。でも受益者はそれを意識していないから、頓珍漢な言動を示しているという現実もあるわけです。ある種(特に責任回避手段として期待される)のヴォランティアはそれに拍車をかける可能性がおおいにあり、それは慎まなければならないと思います。ヴォランティアをする方は善意であるがために周囲を黙らせて事態を悪化させ、しかも理解不能であるからいつまでたっても状況悪化に歯止めがかからないという、ある意味悪気があってする方がまだマシという最悪の状況にもなりかねません。