マスコミ その2

 マスコミが起こすモラルハザードですが、いくつかパターンが挙げられます。そのうち最も大きいのが“マスコミによるいじめ”です。まずは具体例から。2004-07-08。特徴としてはマスコミ自身は岸などの安全地帯にいて、おぼれている犬を棒で叩くことです。
 まず、隠しようのない出来事、しかも悪と特徴付けることの容易なテーマを引っ張ってきます。警察が深追いをしたために少年が死んでしまったとします。少年を死に追いやることは良くないということで、まず見出しで警察バッシングをします。そこらへんスポーツ新聞と変わりはありません。警察が悪かどうかという検証をせずにまず警察=悪のイメージ作りからはいるわけです。そのあとで、事件の詳細を淡々と書いていきます。そして、マスコミなりの論調や識者の意見を載せるわけですが、大切なのが見切りです。マスコミが後から反撃を受けたら困る側の味方をすることが第一で、その意見を最初に掲載します。寄らば大樹の陰ですよ。可能なら疑問形や弱い論調で逆の側の見方をする場合も見られます。あとは炎上するのを待ちます。マスコミは煽動のエキスパートですからまず間違いなく意図した方向に炎上してくれます。万が一間違っていても大丈夫。もし最初の段階で違う見方をしていたなら、事態の推移とともに意見を反転させれば、いつのまにか初めからその立場でいたかのように振る舞えるし。シラを切りたければ4〜5行訂正記事を載せることも可能だし、訂正記事を載せなくても「あぁ、あそこはもとからあの色だから」と流してくれます。そもそも訂正する頃には読者は飽きちゃってますし。何のために反論が出ないよう一方的な物の見方をしたのやらですかってなもんです。万が一読者の機嫌を損ねることがないようにさえ気をつけてればOKなわけです。この場合、少年に責任要素があり警察が法を逸脱しない範囲で行動していたとしても、まず警察=悪のイメージ作りができてしまうでしょうし、賞味期間中はそれが定着しちゃうわけです。
 話はそれだけで終わりません。そうやって警察の検挙能力を削いでいった結果、警察自身が仕事をやりにくくなるだけでなく、潜在的犯罪者層を増やすことになり、事態は収拾がつかなくなります。いったんきっかけができてしまえば、潜在的犯罪者層がふえるだけでなく、そうでない層も警察に対する協力を惜しんだり、それより軽い犯罪がねずみ算的に増えていくことになります。その結果、なんでか住みにくい世の中になってしまっているわけです。警察をバッシングすることによってそのときの気分はスカッとするけど、めぐりめぐって自分の首をしめていることになっているのですが、読者はそれに気付かない。たぶんマスコミは意図的にこのスパイラルを行っているんだろうけど、娯楽記事として満足してしまっている読者からの突き上げがないことをいいことに、中毒のようにこれを繰り返してしまっているわけです。上述の三菱の例のように、警察バッシングできる記事のときだけことさら取り上げ、警察が数の上でいくら治安維持のためにがんばっていてもそれは記事にされておらず社会に共有されていないので、警察=悪のイメージが出来上がってしまうわけです。確かに許されない事件も起こってはいます。そしてそれを記事にして世に問うことは大切です。しかしそんな記事でもたいてい一面的な見方しかしないし、そうでない記事についても、あとあと社会にどのような影響を及ぼすか、判っていても責任をとらなくてもいいために気軽に煽り記事にしちゃっているわけです。
 かといってマスコミだけを責めるわけにもいきません。警察がいくらいいことをしていても、それを記事にして読者が喜ぶか?という問題はあるのです。同じようなぬるい出来事を繰り返し見せられても、それは売り物の記事にはならないわけです。まさに“他人の不幸は蜜の味”なんであって、世の中がどうしようもないことを確認して喜ぶ人間が多いわけです。でもそれが自分自身を苦しめていることには気付かない人間が多いわけです。マスコミも自分が非難されないことを見越して、読者に真の犯罪者は誰かを気付かずにいさせてくれているわけです。で、意識的だろうと無意識的であろうと読者も共犯関係にあると。
 このような構図は他にも見られます。医療従事者バッシングによる医療不信、でも真の原因はわからずやの患者であったとか。教員バッシングによる学校不信、でも真の原因は生徒やその保護者。官僚バッシングによる行政不信、でもその真の原因は欲深な受益者だったりするわけです。政治も最近はそのようになってきてるかな。わがままな餓鬼がその親を責めているという昔ならあったとしても存在が許容されなかった事態が、今あたりまえのように起こっているわけです。