今週のいきいきホットラインは

 うーん、良くわかんない。実は昨日はほとんど全部聞き、今日は三分の二ではあるが、ぼんやりとしか聞いていなかった。そのぼんやりではあるが、気になったのは付加価値をつけるべきとか言っていたこと。ゲストは

東京大学大学院教授 松原隆一郎さん

 とあって、ググって見るとこの人の著書『消費資本主義のゆくえ』を読んだような気がするが、内容をさっぱり記憶していない。
 内容的には福田内閣消費者庁とやらを擁護するようなものであったら問題外だなぁと思っていたのだが、そういう方向性でもなかったような気がする。あくまで気がするだけだが、サブリミナル効果的な構成なのかもしれない。
 記者の目:消費者は甘やかされる存在なのか=中村秀明の関連スレが2まで立っており、ミートホープ事件の折、消費者を馬鹿にした社長の発言に合わせないで、なぜ今頃したり顔でこういうことを言い放つのか、産経ソースというのが全く信用ならないが、日本に国内世論制御を要求 中国高官、ギョーザ報道に懸念というのを受けて、福田総理の閨閥が社主を勤める毎日新聞社がさっそく世論誘導しにかゝっているのか良くわかんないが、まぁ胡散臭いことこの上ない。言っていることがもっともらしいだけにビミョーな感じである。
 さて、付加価値の件であるが、なぜ気になったのかというと、結局この付加価値を高める論調というのは、所詮経済…というより、拝金主義万歳の延長上にあるのではないかということ。モノを捨てるほど余らせて、もう数が足りなくて困るという時代ではないのだが、では物自体それほど品質が低いわけでなく、ある程度のものが十分に行き渡った現在、我々は果たしてその“付加価値”を求めているのだろうか?ということである。
 正直、もう10年程前にトチ狂った自転車も、今現在もハマっている園芸趣味も、確かに頭がカーっとなっているときは少しでも性能のいいもの、見栄えのするものが欲しくてたまらなかったことがあるわけなんだが、いざ落ち着いて現状を振り返ると、そういう自分をバカじゃんと冷静に見つめているもう一人の自分がゐる。昨日の放送でも、買ってから一度も使うことも無い機能をつけた製品を消費者が果たして求めているのだろうか?という問いかけがあったが、ある程度の質が確保されていれば、単純な機能をもつ商品を安く提供してもらうほうがありがたいわけで、さらなる機能がいるのなら、それは使用者の必要度に応じてオプション料金でレヴェルアップを図るなり、消費者自身のカスタムでなんとかすべきなのでは?と思えて来る。
 しかし、それでは新製品の回転率をあげて利益を求める大企業にとっては都合が悪いわけで、ちょうどバブル時期に隆盛を極めた「ちょっとのマイナーチェンジでも新車に買い換えてくれるお大尽」を至上のモデルとする経団連企業にとっては利益があげられないということになってしまう。あのときカード破産が流行ったと思うのだが、消費者にはぜひ理性を失っていただき、ニューモデルが出るたびに借金で身の破滅までして買い替えをしてくれる消費者はありがたいわけで、中古品は新規顧客の獲得のためにも流通量を妨げないし、国内消費者が飽きてしまっても海外の中古市場に売り飛ばせば無駄にもならない。そういう消費ベッタリの体質にしてしまい、ちょっとの“付加価値”にすら金を貢いでくれる国民が多ければ多いほど、大企業にとってはオイシイわけだ。で、その“付加価値”は本当に必要なものなの?。単に消費者に付加価値分の金を無駄に払わせるだけじゃねぇか?というわけだ。値段が高い分、消費税の税収も増えるしな。どうせ今の時代、儲けても雇用者に対価を払わないわけなんで、むしろ自分トコロの社員に払うぐらいなら、そういう構造を温存してくれ、犯罪行為も見逃してくれる自民党献金でもしたほうが安泰というわけだ。
 やっぱ金とモノとの関係をもっと正しく掴まないといけないとは思うのだが、どうも産業というよりは産業を利用して私腹を肥やそうとしている層の金の流通スピードに消費者が狂わされているというように感じてしまう。そもそもそんなに必要もないものを買うように仕向けられ、そのために必要な金を稼ぐために必死に働かされるという構造に日本全体がなっているような気がする。労働単価が引き下げられ、よりたくさん働かないとモノを買う金が得られないし、余裕もなく長時間労働をさせられることで周囲をじっくり見て判断するどころか、自分の家族ですら振り返る余裕も持たされず、もちろんそういう構造にさせられていると気付かれないように仕向けられている。
 とにかく国民を働き詰めにして、政治や、政治家や経団連がズルをしていることに考えが向かないようにしているわけだ。政治に文句をつける時間があったら、その分働いて幸せになれというわけだ。そんなにあくせく働かなくても自分が幸せに暮らしていくために必要なモノはそんなにないし、そもそも自民党が税金などで泥棒していなければもっと国民に余裕が生まれるなんて気付かれちゃったら困るもんな。
 まぁそんなわけで、想定されている付加価値とやらにそもそもそんなに価値などありはしないし、その無い価値に金を払うためにあくせく働く必要もないのではないか?という気がしたので長々と。むしろ生活に必要な財を計算して、余分な経済活動は控え、時間的余裕を作り出すべきだと思うんだよね。GDPが500兆、生産人口が4000万とざっと換算すれば、一人あたりは1200万の生産をしているわけで、これは明らかに過剰生産といわざるを得ない。これが生涯賃金5000万といわれるフリーター(÷40年=)の年収120万で暮らしている国民などの犠牲に成り立っているわけで、やっぱドロボーがいると考えざるを得ない。欲張らなければ森永卓郎のいう通り、300万で暮らせるとなると、働く量は四分の一で済むわけだ。人間の労働の物理力的側面を化石燃料などのエネルギーに頼っているにせよ、たぶん労働時間を今の半分にしても国家は破綻しないと思う。労働生産性が低いらしいから、もっと労働時間を下げても構わないと思うしな。
 なんつーか、日本ってようやく資本主義のキチガイの部分をイギリスに遅れること150年ほどで二度目の体験をしたのかね?。炭鉱で長時間労働をさせられていた子供が、さすがに子供をこき使うのは世間体が悪いからと言って今の20〜30代の(底辺は40〜50代すら)労働者が肩代わりしているだけで、子供がオトナに、炭鉱がビルや工場にかわっただけで、資本家が政治家と結託して労働者を痛めつけるのをわざわざ再現までしてくれなくてもいいのに。まぁ民主主義というのが分からないというのであれば、市民の手でフランス革命を再現して、特権階級がギロチンで処刑されてもいいって証左にはなったけどね。