機動戦士ガンダムSEED DESTINY を振り返って

 さて、丸一日経って他の感想サイトも色々読んでみましたが、やっぱり酷いですねぇ。今回はどちらかというと弁護にまわるのですが、以前から言っているように続編の有り無しでも主張は大きく変わります。ステラの明日発言は次回作のことか?と思ったり。もちろん弁護するのは続編があるだろうからと踏んでいるからなので、なければ近年稀に見る金を湯水のように使って駄作が出来たということになります。自分の浅い体験によると思い出すのがStar wars epsode5 The empire strikes backです。まぁこのシリーズも金をかけた割にはストーリーは単純そのものなのです。むしろ当時は特殊撮影でクローズアップされることが多く、それに注目することが正しい鑑賞のしかただったと思います。私もepsode4 A new hope公開時には小学生だったのでそれにばっかり目が向いておりましたし。それにしても帝国の逆襲は見た人すべてが燃焼不足だったように思います。この作品においては続編が決定事項でしたのでそんなに混乱はなかったような気がしますが。善悪二元論でいえばスターウォーズでは悪に勝たせ、次回で善に花を持たせるのがわかっていただけに我慢のしようもあったのでしょう。
 戦犯の特定をしてもしょうがないと思うのですが、与えられた条件でもなんとか話のつじつまは合わせるのが最低条件なので脚本はちょっと弁護のしようもありませんが、監督はまだ続編の出来次第では非難の槍玉に挙げるのは待って欲しい気がします。3部作と考えているのなら、全体を通じてどのようなプロットをしているかで判断すべきでしょう。多くの作品の場合、中篇は事態を混乱させる必要があり、筋を通して自己主張しているデュランダル側を思い込みだけで正当な手段を用いずに討ってしまったラクス陣営という視点で見れば、まさに混乱の極致なわけです。万が一予算も枠もつかずに第3作が作れないという事態に陥った場合、第2作で主人公側に形式として花を持たせなければならないのでああいう描写になったのではないかと思うわけです。それはたぶん製作者側でも戦犯呼ばわりされるのは覚悟の上だとは思います。だからといっては何ですが、第3作目が始まるとして、(ひとつの形としてですが)自分たちは良かれと思ってデュランダルを討ったのに、いざ周囲を見渡してみれば非難の槍玉にあがっているラクス側という風景から始まると思います。つまり非常な困難を背負った形でのスタートというわけです。
 本作は、“生まれながらの初期条件によって人生などが決まるのではなく、本人の意志が事態を変える”というのがひとつのテーマとしてあります。種割れして飛躍的な能力向上が起こるというあの描写は、あくまで自分が追い詰められたとかどうしてもやらなければならないことがあるとかという意志が強く表れた時点でそれを手助けする形で発現しています。種割れするのがコーディネーターであること、日常でも他のコーディネーターより能力が優れているというズルはちょっとアレだと思いますが。どんなに意志が強くとも、どんなに能力が発揮させられようとも、力の使い方には思いを至らせねばならないのであって、使い方によって世界を救うこともできれば壊すこともできるわけです。沙漠のところでザフトが現地住民を解放する場面がありましたが、あのとき現地住民が怒りに任せて連合の兵士を嬲り殺しにしていたのを複雑な面持ちでアスランに眺めさせていただけに、監督にその視点がないとはとても思えません。今回までで種割れしたコーディネーターが全員生存しているわけですが、当然製作者は生き残らせたことに関しては思うところがあってのことだと思うので、やっぱりこいつらを次の話でどのように使うか興味は尽きません。
 テクニカルなことで誠に申し訳ないのですが、過去のガンダムの文脈を踏まえた上で、やっぱり新規さも取り入れなければならないというハンデは念頭に入れておかないとあまりに製作者に対して厳しすぎるのではないだろうかと思うわけです。主人公だと思わせて実は話を動かすのは前作のキャラクターという展開は、最期でこそ鼻につきましたが中盤までは面白く感じておりました。
 http://members.jcom.home.ne.jp/yamamoto.hp/index.htmさんのところで指摘があったのですが、話の構成がスパロボ的というのも考えさせられます。実は私はやったことが一度もないのでこれまた申し訳ないんですが、いろんなアニメ作品のロボットたちが同一戦場で戦うゲームだったと思います。この作品のロボットやキャラクターも当然そこに投入される前提で話が作られていると思うのですが、そのようなゲームだからこそ求められるのは単発的に盛り上がる個々のエピソードであり、その作品全体を貫くストーリーなどそのゲームには邪魔でしかない。なるほどその用途に転用しやすいように作ってあるわなと感心させられます。ただ、それを優先させるあまり作品全体での整合性が低い順位に置かれるのはさすがにまずいと思うわけです。
 ただ、ターゲット層を考えると無理もない話だとは思うのです。この前の選挙もそうでしたが、そもそも多数に支持される、つまりたくさん売れるためには多数のバカを相手にしなければならないという誠に難儀な話が転がっているわけで。話の整合性を取ったところでDVDや関連商品が売れるのか?と言われると難しいんですわ。blogを書いたりする層はあまり消費に目が向いていない、消費によって満足感を得るよりも色々な思考活動のみで満足感が得られる場合が多いわけです。つまり小賢しい層を相手にしたところでそいつらは金離れのいい優良顧客ではないわけです。消費者の多種多様な興味に合わせて広い範囲をカバーするために多様なキャラを用意し、専用のキャッチ-なエピソードを添えて観客に提示する訳です。それで充分商売になる。同人活動でも物語全体を考察した作品なんてほとんどなく、お気に入りのキャラを数人取り上げて自分だけの世界を構築する。多少知識欲のあるヲタクですらそうなのですから、それより知識欲の深い層を相手にするのはリソースの無駄でしかありません。ましてやターゲットは建前上中高生なんでしょう?。むかしの中高生と違って今や金持ちなわけで、親は自分のことに金は使わなくても子供のことになれば金払いが良くなっている。というよりそんな親が増えちゃっている訳です。アニメ製作といえど商売である以上、売れるためにレベルが低くなってしまうのは仕方がない。もともと大人を相手にしていないのだから気に入らなきゃ見なきゃいいだけの話だし、生暖かく見守るという方法で付き合うということも出来る。スピグラのようにはじめから大人を相手にした作品もあるのだから、餓鬼向けのこれを見て腹を立てるより他の作品を見ていたほうが精神衛生上よいのではないか。
 デスティニープランが遺伝子操作を含むものなのか選別のためだけのものなのか併用されるつもりだったのかとか、レイはデュランダルとグラディスの子供だったのか(コーディネーターの親は生物学的な親でなくとも良い)疑問は尽きませんが、ひとまずこれで置くこととします。