マスコミ その3

 我々はつい忘れてしまいそうになるのですが、日本は一応“罪刑法定主義”をとっています。法律が罪や罰を決めるということ、つまり犯罪者であることを決めるのは裁判で判決が下って確定してからというのが原則です。マスコミの犯罪報道はもちろんこれに従っているので、事件が起こっても犯人と推定される人物を“容疑者”として“糾弾”します。
 よくよく考えてみてそうなっているかと考えると、いくらマスコミが容疑者という言葉を使ったところで我々はその容疑者があたかも犯人であると認識してしまっています。もちろんマスコミも情報収集には怠りがないでしょうから、その容疑者が犯人であるという確証をある程度得てから報道してはいるのでしょう。しかしいくらある人物が現行犯で逮捕されたとしても、裁判で犯人と確定されるまでは容疑者であり、罪が無い状態(確定していない)なわけです。
 そうはいっても、事件や事故が起こって実際に人死にがでたり被害が出ているというのに、肝心の容疑者の詳細が報道されない場合、周囲はかなりイライラすることでしょう。不安でたまらないのに、情報がシャットアウトされるわけですから。大事件が起こった。しかしその犯人がわかるのは数ヶ月か数年後だ。と待ってられないですし。もちろん、大事件の犯人が確定した。しかしその事件は数年前のものである。というのも興ざめですし。この場合、はやく情報を手に入れて安心したがっているのはあくまで読者であり、マスコミはその要求に応える形で報道の即時性を発揮するわけです。もちろん読者の要求を楯にして、確信犯的に報道の即時性をマスコミが要求する場合も多々ありますが。
 先ほども書いた通り、警察も捜査が十分進展してからマスコミに対して報道制限を解除するだろうし、マスコミもまず間違いない状態であることを確認してから報道は行っているだろうから、誤認の可能性はかなり低いと思われます。しかし誤認であったときの取り返しがつかないのが現状といっていいでしょう。より間違いが少ない状態より、博打に近い状態をわざわざ選んでしまっているわけです。この場合もやはり、“人の不幸を娯楽にし、生贄を早く求める”我々の心理的興奮状態がもたらしているわけです。
 その他、問題点はまだまだあります。報道で模倣犯が増えることもあるだろうし。報道で犯罪が許されないことであると明示されることにより、犯罪の抑止効果もあるといえばあります。しかし現在の日本では被害者より加害者の保護が優先されると見なされつつあるので、抑止効果よりは模倣犯を増やす効果のほうが大きいとも考えられないこともないです。誘拐事件の時には報道制限をするんだから、人の生き死にがかかっていなくても社会的にデメリットになると判断して報道制限をしてもよさそうなのにしてないように見えます。報道に抑制効果が無いことは、犯罪がエスカレートしたり若年齢層化していることからも明らかだと思いますけどね。報道が犯罪に対する防御策の告知にもなるといえばなりますが。それもどうかな?世の中を賑わしている贋札事件にせよ、オレオレ詐欺(今は振り込め詐欺らしいですが)にしても、やっぱりそれを娯楽として楽しんでしまっちゃっている層がいて、マスコミはその要求に応えてくれているわけです。で、どんどんモラルハザード状態になると。
 最後は罪刑法定主義とはずれてしまいましたが、マスコミが世の中をいかに盛大にギスギスさせているかを見てきました。しかしそれにしたって情報の遮断状態に耐えられない層、とんでもない事件を期待している層がいる限りマスコミはその要求に応えざるを得ない状態にあることも忘れてはならないことなのです。マスコミは臭いものに蓋をして、面白いところだけ見せてくれているわけですが、その裏には臭い物は見たくない面白いところだけ見たいという読者の存在もいて、切り離せない状態であるわけです。