はめふら#12

 順当に隠れ攻略キャラをいなしてEND。個人的にメタ構造についてもうちょっとひねってくるかと途中から予想してたし期待もしてたんだが、冷静に考えてみるとそれは客を逃がすことになるかもしれん。ただ、やはりこういう話だと単調なクラエス出世物語になってしまうわけで、こういうのが続けばいくらクラエスを危機に遭わせてもどうせ乗り越えちゃうんでしょと思われてしまう。まぁそれ以外の展開を読者は望んでないのかもしれん。
 しかし、ラファエルの名をクラエスが知ってたのはどういうことなんだろ?、今までの話の流れだと、主人公は生前隠し攻略キャラを攻略しきってなかったようだし、それがだれかもあっちゃんから聞いてなかったような気もするし。あっちゃんがソフィアの口を借りてこっそり知らせてた可能性もあるが、夢での対話の様子からもそれも考えにくい。で、なんやろ?、聖女クラエス様の捨て台詞からすると、やっぱり彼も近場にいて救ってほしかっただの、仲良しサークルに嫉妬してただのといった要素もあったのかもしれん。
 あと、単純な物語としての側面だけでなく、アニメ版防振りのように来たるべき社会…的なメッセージもあるのかねと思った。防振りのほうはヴァーチャル空間を1つのフロンティアとみなしてまだまだ成長は可能であるという立ち位置で、これはむしろ、もう日本は成長なんかしないんだから、均衡経済を目指さなくちゃならないでしょ、いつまでも成長経済前提で、出世を望めばそこに要らぬ競争が生まれ、フロンティアがないがゆえに成長なんか見込めないからそれは必然的に他人から奪うことになってしまい、貴族の陰湿な足の引っ張りあい社会になってしまうのであって、そこに必要なのはクラエスのような調整型リーダーなのだという主張。パソナ電通が税金を中抜してブイブイ言わせてるのも、日本が成長なんてしないと見きってるがゆえの行動なのであって、ケケ中がやれマスゴミに顔を出してはやれ生産性とか言ってるの、もうなんのミスリードなんだろって感じ。こうやって視聴を終えてみたら、実は上記来たるべき社会というぼんやりした理想論なのではなく、もっとあからさまな政権批判も込められていると分かるんだが、今はそれには触れず、別のエントリーに譲りたい。
 さて、今期作品で結構音楽面に注目させられる事が多くて、この作品も例外ではないのだが、ちょっとした違和感があったのがangelaのOP。別に貴族社会風のテイストはちゃんと取り入れられていてはいるのだが、歌い方にこの作品との乖離感がどうしても感じられてしまって、いや、別によく考えてみたら裏声を多用する歌い方はオペラを意識したものだろうからそれはそれで雰囲気に合わせているのは分かるんだが、どうもコレジャナイ感が自分にはあった。が、慣れたらこれも味かと思うぐらいの範疇ではある。あと意外だったのがEDで、これ自分は中盤までそういう歌い方をする女性歌手によるもんかと思ってた。で、エンドロール見たらジオルド王子@蒼井翔太という。声高めなんで確かにそう思って聞いてみたらその面影あるわって感じだったんだけど、ちょっとびっくりしたというか。
 あとは劇伴。なんつーか、コメディ要素が多いのでそれなりに軽妙さの感じられるものが多いんだけど、決して幼児向けアニメによくある子供だましのような音楽ではなくて、しっかり作られてるの好印象。クライマックスの音楽も、他のアニメだと音量大きめで激情を煽るものが多いのに、これはもうしっとりしてて、乙女ゲーを題材にしてるだけあって聞きやすい。こういうのはヘンにシナリオを邪魔しないんでなかなか得難い音楽性ではあるんだよな。劇中でアランに演奏させてる楽曲も、これショパンラフマニノフを意識してるでしょって感じで、中世というより、近代現代デショとも思うんだが、これはずっと言ってるように別に中世社会がモデルではないし、キャラたちの命名が英国風であって、そのイギリス、今尚貴族制が残ってる階級社会なので、これも別に問題ない。参考にしてるショパンラフマニノフも日本人が大好きな旋律作家なので、よくツボを押さえてるよなって感じ。
 クラエスが周囲を改善していく展開はなるほどなんだが、その中でも個人的に秀逸と考えたのがメイドのアンのエピソード。これ、フォーチュンラバーをゲームとしてプレイする場合、プレーヤーはマリアを操作するわけなんだが、よく考えてみると、マリアが攻略として手を入れることができる範囲はせいぜいクラエスとの対話ぐらいのハズで、まさかゲーム制作者が悪役令嬢のメイドにまでアクセスして好感度を上下させるように作ってるはずはない。なので、主人公はおろか、ゲマのあっちゃんですらアンをどのように攻略もしくは交渉するかの知識はなかったはずで、アンの信頼を勝ち得たのは純粋に主人公の人間性であることが分かる。重要なキャラではあるが決してメインではないキャラにも気配り?してるからこそ、クラエスの魅力を引き立ててることになってるんだなと腑に落ちた次第。
 途中間延びしてるなと感じたことはあったが、総じて楽しめた作品。どうも原作はおおきなおねえさんに人気だったらしくて、
mantan-web.jp魚拓
 アニメ化も成功だったっぽい。まぁそりゃそうだよと納得できる出来ではある。


アルテ#12

 レオが描いていた天井画にアルテの知り合い勢揃いの巻。前回述べた通り、アルテがベニスに残るかフローレンスに帰るかどっちでもドンと来いだったのでまぁ。貴族であったことも女であることも含めてアルテの人格を形作ってるとか、まぁ人は履歴に支配されるし、今後の自分の選択もまたその履歴としてしまい込まれるってのが延長線上にあるんだろうから、悩み多き世代に対するメッセージとしても無難。友人として相対することが身分差や男女差を越えた平等思想にもつながるって主張のようにも見えたな。
 今まで散々言ってきたことだからアレだが、近代的自我の獲得を、前近代から近代への移行期であるルネサンスまでさかのぼって考えてみましょうっていう作品だと思うので、なんか初回視聴して安直な作品だなぁと思ってた頃に比べたら、全然志も高いし、個人的にも見応えのあった作品。アルテをツアコンとする中世ルネサンスツアーとしてもまぁまぁ満足できたし、時代考証が考えられた過去あるあるにしてもそこそこ得るものがあった。さすがにドラマ性はそれほどでもないが、総合的に見たら自分の見込みを遥かに超える作品だったように思う。

司書#26

 やっぱり続くのか…。こりゃ全五部やるかもしれんな。いちおう簡易製本の書籍が作られたシーンが最後にあったし、これでスポンサーが付かなくて打ち切りでも構わない作りではあったのだけども、そうはいっても前回前々回の構成見たらよほどのことがない限り続けるつもりだったんだろうと思うしか無い。
 最終回として、まさか前世を覗かせる展開になるとは思っても見なかった。これ、わりと禁じ手というか、デウス・エクス・マキナっぽくて、物語としてはあんま感心しないのだが、そもそも契約に魔法を使って、強制力があるなり、自動で罰則が発動するなりの世界観なので、そういう意味での矛盾はない。第1部が乳幼児死亡率の高そうな世界での病弱なマインへのまなざしが語られてたので、この第2部でのマインの前世の母親への想いが語られて〆なのもこれは構成的にgood。しかし本に埋もれて死亡とか、かくしごとでもそれっぽい提示があったのだがなんなの?。おそらく本に押しつぶされて死ぬ事例は現実に今までもそれなりにあったことなんだろうけど、こう連続して見せられると安直とすら感じてしまったというか。
 さて、第1部がマインが前近代的社会に近代を持ち込んで無双する話ならば、この第2部は、神殿入りしたマインが逆に前近代を身を持って知らしめられるという話だと個人的には総括したが、そういう対になってる構造も悪くないと感じてはいる。しかしマインの未来テクノロジーの争奪戦が始まるみたいで、これも話の種を蒔くという視点からすると面白い。貴族の間の争いもそれなりに仕掛けがありそう。そういや、


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 OPに映像にあるこれ、座ってるのはマインでFAだと思うが、立ってるのは誰かと考えて、これ神官長かルッツかちょっと迷ってはいたんだけど、おそらくルッツなんだろうと思われる。
 まぁ神官長未来テクノロジーの利用を考えてるから、国民国家の利点を考えて識字率の向上にも理解を示しておかしくないし、これで大衆にも本をという下敷きはできたってことなのかな。しかし近代というか資本主義の発展は、キリスト教と不可分の関係にあるような気がしてるので、そのへん多神教の世界観でどこまでやるのか、まぁファンタジーだから目くじら立てても仕方のないところではあるし、そのへんの展開もちょっと楽しみではある。

エスタデイ#12

 まぁ曲がりなりにもドラマ性を全面に押し出してるんだからこう来ておかしくないよなという展開。うーん、こう来ましたか…って感じ。正直榀子も陸生もサイテーだなと思うしか無いんだけど、榀子が諸悪の根源なんだろうなというのは中盤まで視聴してからの自分の認識としては一貫してるので、そのへんはまぁ。今だとサークルクラッシャーだよなと思うしか無いが、原作者が女性作家だと、なるほど女を神格化しないで確かにここまで描けるんだよなとちょっと感心したというか。
 個人的にはあんまドラマ性に期待しないで、氷河期世代の青春を描いたその時代性だとか、しっとりとした描写だとかに期待していて、そのへんは十分満足もしましたよってところだが、ドラマ部分も、こう生暖かく見守るっていう態度でいれば、なるほどこれ、作者と読者の対話なんだなと思い至って、これはこれで楽しめたというか。まぁ心の底ではどこかバカにしているような心持ちで、その実ワクワクして楽しんでる感じで、まさに「そんな餌で俺様が釣られクマー」ってトコ。ごちそうさまでした。

野ブタ。~#10

 結局最終話まで見てしまった。まぁなんといってもシナリオ力だわな。Wikipediaを見ると原作から改変してるらしいが、それであっても見応えあった。最後までスラップスティックな作風が鼻についたんだが、それを上回る圧倒的な脚本力というか、正直アニメの脚本が霞んでしまうぐらい。とはいえ、なんつーか、こうこの作品でも、キャラクターや舞台見るにつけ、底辺校に近い設定のように見えてしまうんだが、よくよく考えると、そういう学校では生徒が自分のことばっか刹那的に考えてるのがフツーだと思うんで、他人の好感度を上げるためにプロデュースするという発想、おそらく中間層の学校の生徒でもやらないと思うんで、それなりに知的水準の高いところじゃないと成立しないと思う。だが、そうしなかったのはなぜかと言われたら、おそらくこの作品のターゲット層がその進学校あたりの中高生向けじゃないからだと思う。そういった意味で、おそらくこれアニメ化がすごく難しいんだろうなとも思うし、それができない現状、アニメもやはり幼稚なメディアであることはなかなか否定しづらい感じはする。ドラマに息抜き要素がないわけではないが、視聴者にテーマを突きつけて放映時間の最初っから最初まで逃げることを許さない構造、そりゃアニメはアニメでも劇場版ぐらいしかそういうものを映像化するのは難しいだろう。あとは考える要素を減らして見やすく構成した幼児向けアニメとか。
 自分、この作品のコンセプトを見たときに、おそらくこれは野ブタがMy fair ladyのように華麗に変身する物語だと勝手に思っていたから、野ブタ陰キャのまま受け入れられていく展開はオッと思わされた。おそらく原作も相当売れたのだと思うし、今初放映から15年たった今、放送局がセルフマーケティングとして再放送するぐらいなんだから、それなりの評価を受けてた作品なんだと思う。
 しかしなんだね、上記スラップスティック的な演出もそうだが、演技もねぇ。これは序盤視聴したときも思ったのだが、ジャニーズもクッサイ演技なんかさせずに、もうちょっとリアリティ寄りな演技をさせられなかったのかねというのがやはりずっと頭から離れなかった。繰り返すが、セリフ無しで表情で演技しているときの圧倒的存在感を見てしまったら、いっそのことセリフも身振り手振りもなくしたほうが映像的にマシなんじゃね?と思ってしまうぐらい。