つぐもも2#6

 おそらく最後は和解するのだろうが、いまのところ主人公側と対立してる側の説明回。本筋に関係ないので申し訳ないが、他の作品なんかも視聴して気になってることがあるので書き散らしておく。それは日本人の宗教感というか、神に対する認識なんだが、まぁこの付喪神というテーマからし多神教なの間違いないが、そもそもこの多神教は自然に存在する万物を神格化したもので、それが八百万の神という単語に代弁されてる。それが付喪神ということになれば、元から存在するものではなく、人間が作ったモノに神が宿るということに限定されてる。これがキリスト教などの一神教と比較して面白いところ。なにせあちらは人間は神の被造物という扱い。人間は被造物なのだから、創造主である全知全能の神には到底かなわないという位置づけであり、神の絶対性みたいなものがあるという感覚。ところが、付喪神ということであれば、そもそも神が宿る前のモノも人間が作ったものだし、そのモノから神が宿るのだからどう考えても人間が創造主であって神は人間の被造物ということになる。では、付喪神ではなく八百万と称される神々はどうだったのか?と考えると、これもあんまり神が人間よりえらいとも思われない。もちろん自然界のあらゆるものに神格を設定し、例えば強い動物の力にあやかりたいだとか、人為ではどうにもならない大いなる自然の力に畏怖してやれ鎮撫するとかはあるのだが、こう古事記日本書紀で出てくる天照大神がファンタジーとは言えすべての日本人の祖先であるという建前なのだから、我々日本人も神の子孫である以上、神性はあると考えてもおかしくない。なので、こう神というのは全知全能で人間がどう逆立ちしても立場を逆転なんて出来ないという認識ではなく、こうあるものに対しては対等とも考え、相手の神のほうが力量が上だと把握していても、こうお祈りするとか願うというのは神自体ではなく、その神が持つ力の方にあやかるという側面が強くて、神自体はこうへいこらしても他所を向いて舌を出してるそんな雰囲気すら感じられることがある。なら、付喪神はもっと下位の存在であって、そのへん主人公は遠慮なく桐葉に迷惑なことは迷惑だと言ってるし、すなおも虎徹に対して見下していたということになってた。これは付喪神が本当に神だというのなら、一神教の世界ではこのような態度とか扱いは考えられないことなのであって、そのへん海外にこの作品がどう受け止められているのか気になるところでもある。というか前に聖☆おにいさんキリスト教圏でちょっとした問題になってたというのを目にしたことがあるような気がするのだが、まぁそのへんよな。日本人にとってはキリストだろうがブッダであろうが、もとから万物に神性があるのだから、海外の神様もそのうちの1つぐらいだろう程度に考えて、容易に受け入れられるから、こうクリスマスだろうがバレンタインだろうが海外の宗教行事を節操なく取り入れるのだが、そのへんなかなか一神教を理解できない溝になってる。
 で、オモロイのが、日本人のそのような万物に神格があるという考え方が、今のサブカル作品に蔓延する「擬人化」のルーツになっているのでは?という流れが容易に想像つくこと。神格を与えられるんだから人格を与えることはもっとハードルが低くて、だからこそウス異本であんなことやこんなこともやれちゃうわけなんだが、もしかして一神教の人、神格化は許せなくても擬人化だったら許容範囲なんだろうか?。今回の話も、付喪神として顕現した際、こうお願いをしてる場面で自分たちにも人格があるというセリフがあったし、そのへん、神だから上位の存在としてふんぞり返るんじゃなくて、正座してお願いしてるんだ~というちょっとした驚きもあったのだが。
 まぁ人の思いが途切れたら消滅するしかないとか、その設定、付喪神として一般的なものなのか、それともこの物語のオリジナル設定なのかイマイチ判断つかないのだが、まぁそのへん調べるのめんどくさいんで、まぁこの物語限定での設定だとしても、こうやってきちんと前提条件として説明してくれてるんだから問題ないよねと受け入れて視聴していくつもりではある。で、ちょっと思いつきではあるが、一神教とは違うこのような人間と神とゆるい関係性が、こう、中央集権的な権力の一極集中を嫌う源流になってるのかねぇ。前にちょっと述べた、日本歴史的に今なお中世だっていうあの話のことなんだが。

アルテ#4#5#6

 わからんもんやな。個人的には#4で大化け。通常ヒューマニズムと言えばやれ人助けのようなキレイ事において使うことが多いのだが、ルネサンス期のウマニスモはこう、そもそも人間に取り付いている社会的立場だとか宗教的な価値観だとか、そういう諸々のものを一枚ずつ剥がしさって裸にしたときに(だから絵画では裸婦像がギリシャ時代のものから復刻して再現される)本質として何が残るか?という追求なのであって、だから今回の話のように剥き出しの欲望がテーマになったり、こうアルテ最初っから恋愛脳でしょうがないなぁとか思っていたのだが、主人公もまたそういう欲望の奴隷であるということが示されていて、あ~、この作品それがメインかどうかは別として、ちゃんとルネサンスとは何かを描こうとしてるんだなということがわかる。
 で、自分がこの作品に対する認識をガラッと変えた衝撃のシーンが、高級娼婦ヴェロニカとアルテの再会時の会話。アルテの、大量の本を見てその努力に尊敬するとかそういうセリフ。あの物言い、顧客に対するリップサービスおよび自分の売り込みとしてこの上もなく出来が良い上に、上記ルネサンスが追求した、人間を丸裸にして真っ白にした上で、では他人とは違うパーソナリティーとしてヴェロニカという人間を特徴づけるものはなにか?というものをこの上もなく言い当てていて、ちょっとこのセリフの直後から視聴態度が変わらざるを得なかったというか。そしてアルテが貴族の中でも変わった存在であるという蓄積がここで生きてくるし、それまでの対話からアルテが決してお世辞でなく本心からそういっているのは明らかなんで、そりゃヴェロニカが気に入るの当然でしょと腑にも落ちる。この時代の都市国家の貴族というのは、前にも言及した通り、家柄が重要ではあるのだが、それよりなにより重要なのがカネ持ってることなんで、それが職業に対する偏見が希薄だという理由付けにもなるし、社会構造は大きく違うが現代の主流である後期資本主義は金融資本主義とほぼ同義なんで、現代にも通じる価値観になる。自分的にはこの作品ヌルいまま化けずに終わる可能性が大きいと思っていたから、これは嬉しい誤算だった。
 まぁあと#5で、絵は嫌いだといいながらがらんどうの個室にたった一枚だが絵が飾ってあるのはなんでだろーとか、#6でサッカーの原形があれだったんだとわかったり、得るものそこそこあった。いわばアルテをガイドツアーにした中世フィレンツェ紀行という、それなりに期待してた物が見られたってこと。
 まぁあとは全体的な構造として、女だから優先して出世させてください、女だから甘やかしてください。子供がいて大変だから時短でお願いします、成果の上がる面白い仕事をやらせてください。それで成果が上がったら他人より多く給料をください、それが不満だったら転職しますっていう、今ドキのフェミが見たら卒倒しそうな主張ばっかでワロタというか。