オーフェン#7

 ディープドラゴン編解決?の巻。うーん、TTRPGの形式とはいいながら、そういう視点で見ると攻略側のプレーヤーはまだオーフェンしか動かせず、クリーオウやマジクですらNPC扱いっぽい感じを受ける。というか、TTRPG以前にやはり物語ではあるので、ゲームブックのような要素も感じられる。今回なんか転移の魔法なんてページを捲った先に「転移魔法が使えます、でも10㍍ぐらいしか移動できません。使いますか?1D6 で偶数が出たら○ページに、奇数が出たら△ページに」みたいな。まぁ実際に小説には選択肢なんかないわけで、そのへんあくまで考え方の一つでしか無いが。
 今回面白かったのがワンコの親子関係。クリーオウが子供を盾にしたとき、親が好きにしたらよいというあのシーン、今だったらあの描写はできないはず。クリーオウが拾ったときも、なんで夜にほっつき歩いているのかとか、フリーダムすぎんだろとツッコまれるはず。ディープドラゴン、ケモノの姿をしていても人語を操り、人間が使ってる白魔法と対置する黒魔法を使っているところから、あれは人間と同様の存在なのであって、村人に畏怖される存在とオーフェンを上回る実力を持っているというのを効果的に表現するためにああなっているだけの話で、基本人間と置き換えても問題ない。今回黒ワンコの子供の扱いがああだったから、子供を軽んじてるというのは今の価値観なのであって、アレ、親が子供に過干渉せず、それなりに育って世代交代の時期に来ればその地位を明け渡すであろうし、その点子供であっても割と一個の人格として扱っているだけ。子供を見殺しにというところも、あれは自分に与えられた天命に忠実なだけで、アレ子供だけでなく自分がそのような状況に置かれても粛々として運命に殉じるだろう。そのへん近代的自我以前の描かれ方なだけ。そのへんタイムリーなことに、ソマリの直近のエピソードであるウゾイとハイトラの例を見てみたらよい。母親を殺されたことを知ったウゾイが激しく葛藤しているのに対して、今回クリーオウに引き取られた黒ワンコはむしろ自身が親を殺してる。
 まぁ細々と書くのはめんどくさいので省略するが、昔だったら「そんなもんやろ」で済まされていたことが今では大げさに扱われているんだなと気付かされる。昔を美化するわけではないが、如何に今のほうが息苦しく、生き辛い世の中なのかをまざまざと見せつけられる感じがした。共同体を破滅に導こうとしたマクドガルやディープドラゴンが責任をとって殺されているのを見ても、振り返って現代を考えてみれば特権階級だけでなく庶民にも無責任の気風が蔓延してるんだろうなとぼんやり思ってしまうほど。特権階級は責任の投げつけ先が不特定多数の下々のものだから食い散らかすだけ好き放題だが、庶民の無責任度合いというのは、責任の投げつけ先が同じような庶民にならざるを得ないから必然的に他責的になる。そりゃうんざりだよな。
 このアニメも、素材は昔のものを引っ張ってきてはいても、シリーズ構成や脚本は最近の人が担当してるんで、それほど時代性が顕著に感じられるわけでもないんだが、それでも今回の話の視聴後感は、なんとなく今ドキのアニメ作品よりスッキリしているような感覚ではある。わだかまりがあっても、いざ終わってみたらかなり雲散霧消してるとか、そんな感じ。