冴えない彼女の育てかた ♭ 第2話

 書店での安芸のつぶやきは西尾維新の文体なんだろうな。
 霞ヶ丘がゲームについて引き受けた分を終わらせたゞけでなく、代替案も示してメムバーがちょっとばかし混乱する話。ちょっと面白いと思ったのは、ゲームにしろラノベにしろ、一つの作品内で伏線を張り、その回収も巧妙に仕組むという昔ながらの作り方だと、ふと良い思いつきが浮かんでもそれに差し替えて…というのはなかなかできなかったのでは?ということ。もちろん絶対できないということはないだろうが、一つの作品で伏線を各部各部で有機的に繋げているとなかなか組みなおしが難しいと思うのだが、これ、おそらく現代ではとくにマルチエンディグ方式が浸透したらテキストのモジュール化が急速に発達したのでは?と思われる。純文学に近い作品だとまだまだ昔ながらの方式だろうが、ラノベあたりはもうそのモジュール化が普通に行われているのではないかという気がする。だからこの作品ではサークルでわたわたするのだろうが、原作者の日常ではこんなことあたりまえだよって感じなのかな。そのモジュールの一つ一つも要素分解していったらおそらく今までに淘汰された末に残った「お約束」というフォーマットだろうし、そこに作家性をどう求めていくかは難しいところ。
 作中でメムバーが見てた映画も、そのモジュール化のおかげでTV放映版からの手直しでひねり出されたものだろうし、そのへんやはり作家としてあの映画は霞ヶ丘にとっては許せなかったものだと思われる。が、今回の霞ヶ丘が行った差し替えもおそらく構造的には同じことではあるはず。たゞ、彼女にとってはそのモジュールの内部*1にオリジナル性というか作家性(英梨々が真骨頂といってた通り)を込めているのだと思われる。
 まぁよくわからんのではあるが、今期のテーマが「物語性とは」だとか「エンターテインメントとは」だとかゞあるのだとすると、その材料を今回の話で投げ込んできた感じ。もともと差し替え案の原案が最初っから候補として霞ヶ丘の頭にあったのかもしれないが、氷堂の随伴を聴いて頭がリセットされたとかイメーヂが降りてきたとか、まぁなんらかの影響があったのかもと思うと、そういう妄想をするのも結構楽しかったりする。人間一人でいろいろアンテナを張ったり情報収集し、そいつの物の見方や切り取り方で構成してもそれなりに形にすることもできるんだろうが、本人がそれをそうと気付かないうちに、自分とは違う他人との関わりでアイデアが浮かんだりなんらかの変革を遂げたりするということもあるわけで、作家の個性で頂上を目指すのもよいし、チーム制の坩堝から生み出されるもので頂上を目指すのもやり方としてはどっちもアリなんかもしれんわなと思わされたり。

*1:か、そのモジュールの有機的な配置