アタックNo.1 第40話 栄光へのラリー

 バレーボールをサッカーに使用したらすぐに痛んでぼろぼろになるだろ、ジョニー?と思っていたら、そういうオチでしたか。
 いやぁ、緊張が途切れないねぇ。負傷者をいたわるコーチの描写にどうしても新鮮さを感じてしまう。部活動に限らずとも、健康管理も仕事のうちという日本の慣習や、ごくごく最近の「過労死も自己責任」とか言って、部下を鞭打ったり馘を切ったりする上司のなんて多いことよ。
 さて、どうやら国際試合も終わって一息ついたっぽい。自分なんかは宮台真司の「終わりなき日常の連続」や、大塚英志の「大きな物語の喪失」という説をかなり納得してしまってはいるのだが、こうやって、「大きな物語」が信じられていたころの作品を見てしまうと、なんとも複雑な気分になる。確かにスポーツ自身が「大国の代理戦争」という側面すら失ってしまって金権的なモノになってしまっているということもある。こずえ達はまだ中学生であり、努力の先に彼女たちが得るものはありはするのだが、そうではなくってスポーツにしろなんにしろ、これだけ国際化が進行して価値観が多様化し、絶対的なNo.1がどれだけの意味を持つのか、頂点を極めたものがさらに目指すものって何なの?と考えたときに、「ハテ?」と立ち止まらなければならないということには思い至ると思う。さらなる高みを目指す動機はあるのか?。確かに大きな物語は喪失しているように見える。
 しかし、こうやってソ連に負けはしたものの、というか負けたからこそまだまだこずえたちは目指すべき目標が残っているとでも言わなければならないのだが、彼女たちには大きな物語が屹立しているわけだ。面白いのは、今回の試合が終わった後の描写で、こずえの母親の流す涙はたぶん悔し涙だと思うのだが、それ以外のキャラクター、みどりの父や一之瀬、本郷先生や猪野熊コーチの流す涙はどう考えても日本チームが負けて悔しいという涙ではなかったように思う。別にここで「アタックNo.1」は終わっても違和感は無い。こずえの富士見学園中等部から選抜チームで決勝戦にまでこぎつけたストーリーとしても「大きな物語」として成り立っている。
 で、これが現在のポモ*1日本に実現不可能なのか?と思ってみると、決してそうではないのではないか?、国際的に見れば確かに猿芝居程度にしかならないのだろうが、日本国内でいろいろなスポーツ、いやスポーツ以外でも演出如何で国民の意識を励起させることは可能なのではないか?という妄想を抱いてしまうのだ。やっぱシステムなのかね?。うまく言えないけど。
 しかし、フィクションとはいえ、こうやってラリーの末の決着という迫真の試合を見てしまって、そういや昔のバレーはラリーポイント制ではなかったから、土壇場の踏ん張りとか面白かったよなというのを思い出した。女バレ限定で、やってる選手は疲労もたまったもんじゃなかったと思うんだが。今のだと、女バレでもパワーとスピード勝負になってしまっており、パワーを堪能するのなら男子のほうが面白いし、かといって男バレはそれなだけに、いっそう身体的能力で勝負が決まってしまって面白くも無いという、まぁそりゃそうだわなという結果になっている。一つ一つの技が完成しきっていないからこそ脇も甘く、攻撃守備に多様性が過渡的に生じるってのは皮肉ではあるよな。ボルチンスカヤの殺人スパイクも、日本チームは二段レシーブとかを編み出していたがどうなんだろ?。スパイクを打つ寸前に二人が駆け出していたから、その時点でコート内には4人しか残っておらず、ブロックに一人二人貼り付ければその分だけコートがガラ空きになって、フェイントでも十分確実に点が取れるはずなんだよな。空中回転レシーヴもともかく、技自体は陳腐だったりするのだが、必殺技の記号でしかないと割り切ることが出来れば問題は無いとは思う。
 でも、つくづく思うのだが、仮に大きな物語を取り戻せるとして、それがこれからの凋落日本に必要なものなのか?については十分に検討しなければならないとは思う。射幸心を煽って無駄に体力を消耗するのも馬鹿らしい。決して金のためだけではないバレーというのは構成上説得力があったが、楽しむためのバレーはまだ依然として残ってはいるのだ。むしろ年取ってからのスポーツはそうであるほうがはるかに有意義だったりするかもしれないし。